「とおりゃんせ」
童謡の「とおりゃんせ」という歌をご存知ですか?
そう、あの「とおりゃんせ」です。
小さい頃、何気なく口ずさんでいたと思います。
歌詞『通りゃんせ』
通りゃんせ 通りゃんせ
ここはどこの 細道じゃ
天神さまの 細道じゃ
ちっと通して 下しゃんせ
御用のないもの 通しゃせぬ
この子の七つの お祝いに
お札を納めに まいります
行きはよいよい 帰りはこわい
こわいながらも
通りゃんせ 通りゃんせ
歌詞の意味は、わかるようなわからないような、良く分からない歌詞です。
私なりの解釈ですが、季節は秋。
七五三を思い出すのです。
この歌は子供への応援歌と思っています。
歌詞の前半はわかりやすい。
子供が七つまで無事成長できたので、天神さまに、お礼参りに行く親子の姿が浮かびます。
昔は、子供が七歳になるまでは「神の子」と言われていました。
いわば、七歳になるまでは、まだ人間社会の一員ではないということです。
七歳になってはじめて「氏子」と認められます。
その報告もかねて、神様にお参りに行きます。
そして、後半の歌詞は不思議です。
「行きはよいよい 帰りは怖い 怖いながらもとおりゃんせ とおりゃんせ」
行きは七歳なので「神の子」、神様が守ってくださる。
そして、神様に「氏子」と認められたら、「人間の子」。
だからこんな事が考えられます。
人間社会に入ると、いろんな怖い事、妬み、嫉妬、挫折などがあります。
そういう怖いことがあるよ。
怖い事もあるけど、とおりゃんせ。生きていこう。
社会を渡っていこう。と背中を押してくれていると私は思うのです。
私は童謡研究者でもないので、この解釈は間違っているかもしれません。
でも、ただの怖いだけの歌が、現代に至るまでずっと歌い継がれてくるとは思わないのです。
最近では、昔からの童話や民謡、寓話などが書き換えられるという妙な話があり、非常に遺憾です。
興味本位に残酷だ、怖い、恐怖を与える?など勝手な理由を付けておもしろがっているような風潮が嫌です。
そもそもそれぞれの童話や寓話、民話や民謡には、本来の意味や説諭的な側面、人の世のことや、モラル、など子供たちに必要なことを教えるものであったはずです。
表面の言葉字面だけを「見て」、内容を変えるというのは浅薄な話ですね。
昔は「人が見てなくても、神さんが見てはるよ」と子供たちは諭されたものですが、童話や民謡の本来の意味を、子供たちに伝える教育をもう一度考えて欲しいです。
最近の学校の、道徳の時間、道徳の教科書などより、民話、民謡、童話のお勉強の方がはるかに深いと思います。