言葉の語源に人間の動作や行いを見聞きすることで生まれた日本語があります。
言葉の文字だけを見ても、何が由来するのかさっぱりわからないほどですが、実はこんな意味がありました。
日本舞踊から生まれた言葉「とことん」
仲間同士で何か目標に向かって打ち込んでいると「練習はとことんやった、あとは運を天にまかせよう」ということがあります。
「とことん」は、どんづまり、最後の最後という意味で使いますが、あまり切羽詰まった感は無く、どちらかというと隅々まできっちりとやりましょうという印象でしょうか。
「とことん」という日本語は、もとは踊りの用語から出た語です。
踊り手が踵で踏む足拍子の「トコトン」という音をいいます。
踊りの所作を、最後の足拍子までキチンとし終えるというところから「とことんまでする」という言い方ができたのです。
明治初年の流行軍歌に「とことんやれ節」というのがあります。明治元年、品川弥二郎作詞、大村益次郎作曲によるもの。「とことんやれとんやれな」という、はやし詞を調練太鼓に合わせて歌ったそうです。
明治の初年といえば、戊辰の戦争が終わりに近づいたとはいえ、動乱と大凶作で、社会は混乱と不安の中にありました。「とことんやれ節」の調子のいい楽曲と、耳新しい語が、新鮮に響いたことでしょう。
「ふざける」は、仙女と戯れた夢の話を例えた日本語
ふざけるという言葉に由来する、おもしろい故事があります。
昔、楚の国の襄王が昼寝をして夢を見た。夢の中に巫山(ふざん・中国四川省巫山県の東南に位置する名山)に住む仙女が現れた。仙女は、襄王とベッドを共にした。
つまり、襄王は、巫山(ふざんの仙女)と戯れたので、「巫山戯る(ふざける)」となったのだという。
夢とはいえ、襄王と仙女の情交細やかなことを、「巫山の夢」「巫山の雲雨」といって男女間のたとえにしています。
「朝っぱら」は朝腹?
「朝っぱらからピアノがうるさいぞ」「朝っぱら呼び出すところをみると、ロクな用じやないな」と、こんな朝早くにいったい何事かといった気持ちを表す言葉として使われているが、もともとは、朝腹といい、朝食前の空腹の意でした。
『天草本伊曾保物語』に、「朝腹のことなれば、吐却すれども、痰よりほかは別に吐き出さなんだ」という記述の箇所があります。
「朝っぱら」は朝食前の空腹という意味から「朝早く」という意味に転じ、さらに「朝から」という意味にもなりました。
昔は「朝腹」を、「至極かんたん」の意味あいで、朝めし前と同じように使っていたこともあり、浄瑠璃の『鬼一法眼』に「そんな事は朝腹、望みなら呼んで聞かさう」とあります。
近ごろでは、情報交換と交流を意図して異業種間の人が集う「朝会」、出勤前にスポーックラブで早朝スイミング、英会話の早朝レッスンと、朝っぱらから、がんばる人が多い。
「あげあしを取る」は、相撲の技から出たことば
「すかさずあげあしをとって得意になるなんて、嫌な性格だ」。
あげ足とは、揚げ足で挙げ足とも書く。
その時の通り相撲や柔道などで、地面を離れて浮き上がった足のこと。相手の浮き足につけこんでその足を取って倒すことを、「揚げ足を取る」という。
いうまでもないが、足をとるのは反則でも卑怯でもない。
七十数手の決まり手のなかの一つであるが、相手の浮き足に乗じた悪達者の意に転じて、人の言い損ないや言葉尻をとらえて、皮肉をいったりやりこめたりする意味の言葉になりました。
人の揚げ足をとるような輩は、まともに相手にしないこと。肩すかしを食わせる
肩すかしは肩透と書き、これも相撲の手の一つだが、要は意気ごんで向かってくる相手と、がっぷり四つに組んだりしないこと。四つに組むと見せて、相手が押して出てくるところを、ぱっと体を開いて泳がせてやる。
しかし、相手が悪いと勇み足になるから、加減が必要だ。