神様に好かれる話し方を学ぶことは円滑な人間関係に役立つ

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集合住宅などによく見られますが、隣に誰かが引っ越してきても全く気づかないのが普通になりました。
昔は隣近所に引っ越しの挨拶をしたものですが、いつからこんなにギスギスした社会になってしまったのでしょうか?
神様を敬う礼儀作法が起源となっている日常生活の作法や習慣も、時と共に薄れていくように感じます。
それは同時に、神様との対話を自らが拒否して口を閉ざしてしまうことになるのではないでしょうか。

でも人々は神様の御利益を信じて毎日のようにお願い事をしています。
この状況を実際社会の人間関係の置きかえてみてください。
どんな場面が想像できますか?

対話も何も無い赤の他人からいきなり「私に無担保でお金をください」と命令しているようなものです。
今の社会を見て思うのですが、こんな時代だからこそ原点に立ち返り、神様を敬い尊ぶ気持ちを基本にした人間同士の作法を思い出してみませんか?

目次

感情を露わにせず、理性優先で話すことを心がける利点

コミュニケーションにおいて、感情任せに、いきなり声を荒げたり、怒鳴ったりすることは礼儀に反します。そのような人を下品だとして嫌うのは、今も昔も同じです。

感情をむき出しにし、余計なことを言って、人の心を無用にかき乱すほど愚かなことはありません。

実は、喧嘩にもちゃんと礼儀があります。
「けんかしぐさ」といって、手を出す前に何度も相手に警告をするのです。

江戸時代でもこれは健在で、喧嘩はお互いの合意のもとにするものでした。
相手にも事情があることを掛酌し、相手が引っ込んだら、それ以上のことは毅然としてしないというのが礼儀だったのです。
だから急な喧嘩にはなりません。

これは、仕事にも役立ちます。
もしもパッと感情が高ぶったときには、ひと息吐いてみましょう。
それから 「今、お時間よろしいですか」 と尋ね、よいという返事があれば、「少しお話ししたいことがあるのですが」と切り出します。
「私は、実はこう思っているのですが、あなたはこうおっしゃる。そこのところがよくわからないので、もう一回教えてくれませんか」。このように、理性をもって論理立てて話をすると、相手の理性が引き出されます。

こうした話し合いをもつことが、まずは礼儀であるといえます。

感情は感情を引き出し、理性は理性を引き出します。
自分がかっかとなると、相手もかちんとなって怒り、やらなくてもよかった喧嘩が起こります。

なぜ人間に知性があるのか。
人づき合いでは、そうしたことをきちんと考え、理性的に接することを心がけたいものです。
感情を露わにするのは、愛する人に愛情を伝えるときだけ……となれば、粋ですね。

悪口は言わない。見てわかること、本人がわかっていることは言わない

人づき合いでは、人の噂話や悪口を口にしやすいものですが、もちろんそれは、世界共通のマナーのタブーです。
そして、このことは、日本人が昔から最も大事にしてきたことの一つでもあります。

悪口を言うことは、自分を穢し、相手を穢し、相手の先祖代々まで穢しことになり、冒涜以外の何物でもないと考えたからです。

類は友を呼びますから、陰口が好きな人にはなるべく近づかないようにするのが一番でしょう。

また、見てわかることは言わないのも礼儀です。

たとえば、相手の顔を見て「目の下にクマができているね。疲れているのか」と、言ったとします。
そう言われたほうは、決していい気持ちはしません。
だから、言わない。それが思いやりです。
同様に、本人がわかっているようなことは、口にしないようにしましょう。これも世界共通です。

マッサージをしてもらっている最中に、「お疲れですね」「とても凝っていますね」と、声をかけられた経験はありませんか?
これなども、疲れて凝っているから来ているわけで、わかりきったことです。
本当にホスピタリティの心があれば、不要な言葉。
江戸時代なら 「野暮だねぇ」 と言うところでしょう。

遠慮がなく、遠くを慮らないで言葉を発することは、人の心を傷つけます。

そのようなことをよしとしなかったのが、江戸時代はじめ昔の日本人でした。
私たちも野暮なこと、下品なことはしないという美意識をもって、気持ちのよいおつき合いをしたいものです。

三脱の教えとは、人に年齢・肩書き・地位を聞いてはいけないこと

日本には古くから「三脱の教え」というものがあります。
この「三」とは「年齢」「肩書き(職業)」「地位」のこと。それを初対面の人に聞いてはならないという暗黙の了解です。

これらは、いずれも相手のプライベートや表面に関することです。
三脱の教えとは、そうした表面的なことにこだわり、先入観をもって人に接すると真実が見えず、正しい判断ができなくなってしまうことを戒めたものです。

人づき合いに当たっては、その人自身と向き合い、内面をよく感じ取りながら会話するようにと説いています。
これは、現代の国際社会でも当たり前のマナーとなっています。

色眼鏡で人を見るのは非常に下品なことであり、また、自分ばかりを尺度にすると見誤ることがあると注意を促すのは、やはり世界共通です。

よくあることが「自分は、年齢を聞かれても平気だ。だから人に聞いてもよい」という理屈です。
それは、その人だけの尺度にすぎません。

他の人は何を嫌がるのかをさまざまな人の立場になって考えてみる習慣が大切でしょう。
表面的なことにこだわらないで、相手と会話を楽しむためには、自分自身が教養を身につけることも大切です。

古典や先人の教え、自然、政治など、さまざまなことを自分の言葉で話せるようになれば、三脱の教えも自ずとできると思います。語彙が豊かになることは、人への思いやりにも通じます。

江戸っ子の心遣いは現代でも使える

「江戸しぐさ」とは、「江戸商人のリーダーたちが築き上げた、上に立つ者の行動哲学」であり、「自然を大切にし、円満な人間関係を維持し、異文化と共生する知恵」のことだといいます。
代表的な「江戸しぐさ」3つを考えてみましょう。

〇譲り合いの精神を学ぶ「こぶし腰浮かせ」

「江戸時代、渡し船はお互いさまの乗合船」であり、「狭い船の中で譲り合うのは当たり前。
ちょっと腰を浮かし、こぶし一つぐらいを譲れば、わけなく空き席ができた」という教えです。

他者と何かを共有するときは譲り合わなくてはいけないのは当然のことですが、疲れているとどうしても心が狭くなってしまい、電車の中で、お年寄りが立っていてもついつい寝たふりをしてしまう……。
そんなときにふと思い出したいのが「こぶし腰浮かせ」です。

漠然と「譲り合い」と思うよりも「こぶし一つ、譲ろう」と考えてみる方が、具体的で実行に移しやすそうです。

〇ちょっとした心遣いがカッコイイ「傘かしげ」

「狭い道路ですれ違うとき、ちょっと傘を倒して、お互いに軽く会釈を交わす姿」のこと。
傘がぶつかり合うことを防ぐ、ちょっとした心遣いですが、相手を尊重し、思いやる心の表れです。

〇江戸っ子のコミュニケーション術「束(つか)の間(ま)付き合い」

江戸っ子は見ず知らずの人とも上手にコミュニケーションを図りました。
それは「見知らぬ人も仏の化身と考えた」ためであり、だれとでも顔を合わせたらあいさつをし、一期一会を大切にするように心がけました。これが「束(つか)の間(ま)の付き合い」です。

近所付き合いさえも失われつつある今日、「束の間の付き合い」をしている人は少ないのではないでしょうか。
また知らない人だからといって、店やレストランで悪態をついたり、車内で化粧したり、友人知人には見せられない行動をとってしまうことはありませんか? 

「見知らぬ人も仏の化身」と思えば、そんな行動も慎めるかもしれません。 

以上、神様に好かれる話し方を学ぶことは円滑な人間関係に役立つでした。

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