少人数や単独で仕事をするイメージが強い忍者ですが、実際は企業のような組織があり、それぞれの役職に応じてチームで仕事をしていたようです。
特に戦国時代に暗躍した伊賀や甲賀の伝説の忍者を基本に、忍者の組織を考えてみよう。
伊賀流と甲賀流は、ほぼ同じ忍者集団
伊賀や甲賀にかかわらず、忍者の組織編成や、役職の呼び名などは、忍者集団ごとに細かい部分が異なっていたという。
役職名などはその組織内のみで使われる隠語のような場合いも多い。
どこの流派でも、基本的には、武将との契約交渉や作戦の立案などを行なう幹部と、各幹部の下に情報収集や暗殺などを実際に行なう実戦要員がいる形です。
伊賀流と甲賀流の関係はといえば、よく語られることは、この2つの組織は犬猿の仲で、良きライバルであり競争相手として、日々切磋琢磨しているという物語ですが、実際は違うようです。
伊賀流では、この幹部クラスに12家。中流では、53家あった。伊賀でも甲賀でも、組織の方針や内部の掟はすべて合議で決定していることから、ある意味では、権力が一部の者に集中せず「民主的」な共同自治のシステムだったとか。
しかし、全く交流がなかったかのかというとそうでもなく、双方で情報交換をやっていたといい、ほとんど同じ集団だったといっても過言ではない。
なにせ戦国時代では、ひとりの武将が両流派からそれぞれふたりずつ雇うなんてこともめずらしくなかった。
また、伊賀流と甲賀流のなかではさらに〇〇家一族といぅ血縁集団を単位にグループが分かれており、これを「◯〇党」と呼んでいました。
ときには、同じ流派内でも敵対する武将に仕えることもあったのです。
<集団内での役割>
◎情報収集などの諜報活動
◎味方が裏切ったりしていないかの身内の監視
◎ニセ情報を流すなどの謀略
※甲斐の武将、武田信玄が使った忍者集団「三ッ者」では、諜報係を「間見(まみ)」、味方への監視係を「目付」、謀略係を「見方」と呼んでいました。
忍者は江戸幕府のもとで働いた「お庭番」!?
戦国時代が終わり、江戸幕府を築いた徳川家は、伊賀組、甲賀組のふたつの忍者集団を情報収集や諸大名の監視を行なう「隠密」として活用しました。
伊賀や甲賀の出身者は江戸にも配置されたが、おもな仕事は、武家屋敷や大奥の警備係です。しかし警備係は表向きの役職であって、裏では忍びの仕事をしていたという。
また、八代将軍德川吉宗(在職1716〜1745)が、お庭番制度をつくりました。
お庭番は将軍直属の特別な忍者(隠密)で、各地の人名などのほか、江戸城内の要職にある者たちまでを監視の対象としました。
これは、七代将軍家継の死去で家康以来の血筋が一度とだえ、吉宗は紀州の徳川家から将軍職に就任した立場であっため、身内の人問を完全には信用できない事情があったからだといわれます。
お庭番は、表向きは「広敷用人」などの役職名で呼ばれ、幕末まで活動しました。
忍者活躍の記録~6万の大軍に勝利した甲賀忍者
史実上での忍者の活躍の記録は断片的なものが多いが、戦国時代の戦乱などには、影で忍者が暗やくしていたといわれる話が少なくない。
<室町幕府の将軍、足利義尚の場合>
1487年に近江の六角氏が幕府に逆 らって領地を拡大。その征伐をはかったが、六角氏に仕える甲賀忍者たちによって敗走させられた。
義尚の軍は鈎(まがり)(現・滋賀県栗東市)の山中の寺に布陣したが、望月出雲らが率いる甲賀忍者たちが闇夜に隠れて潜入し、煙幕で敵の目:をくらましながら義尚を襲撃した。
義尚は負傷したものの生き延びます。しかし、このとき幕府軍は約6万人もの兵力を動かしたというのに、その3分の1以下の兵力の六角氏の攻略に失敗したのです。
おかげで、幕府の権威はすつかり地に落ちてしまいます。甲賀忍者が幕府を揺るがせたこの一件は、のちに「鈎の陣」と呼ばれるようになりました。
<甲斐の武田氏の場合>
1581年、駿河(静岡県)に攻め入った際には、同地の北条氏に仕える風魔党の忍者が大暴れしました。
風魔忍者たちは、闇夜にまぎれて武田軍の陣地と北条軍の陣地の間を流れる黄瀬川の激流を乗りこえ、武田軍の陣地に火をはなったり、馬の綱を切って暴走させたり、物資を略奪するなどの奇襲を仕掛けました。
武田軍もあわてて必死に応戦したが、混乱のため同士討ちにおちいってしまう。
もちろん武田にも忍者はいたが、そこは忍者同士、たがいの考えることは予想がつくとえて、武士たちのように混乱することなく、敵味方を判断していたという。
忍者集団における最後の組織戦、「島原の乱」
江戸幕府の成立後、1614年から翌年にかけて、豊臣派の武将と、これを支持する浪人たちが、大坂城(大阪城)に立てこもり幕府に抵抗した。世にいう大坂冬の陣と夏の陣です。このときも忍者が暗やくしました。
当時の記録『難波戦記』によると、幕府側は伊賀と甲賀の忍者を大坂城内に潜人させ、「〇〇は裏切るつもりだ」といったニセ情報を流すことで、豊臣側の大名たちの間の結束を切り崩し、大坂城の攻略に成功したという。
忍者が最後に集団戦に参加したのは、1637年の、「島原の乱」であったといわれます。これは、天草・島原地方(現・熊本)のキリシタン農民約3万7000 人が、領主の支配に対して大規模な一揆を起こしたものです。
反乱は長期化し、幕府の老中、松平信綱がみずから大軍と10人ほどの甲賀忍者を率いて現地の指揮にあたりました。望月与右衛門らの甲賀忍者は、信綱の命令により、反乱農民が立てこもる原城付近の地形や堀の高さを調杳したほか、城内から米俵をひそかに盗み出して、反乱農民たちを飢えさせたという。
幕府にとって、島原の乱の鎮圧は、各地のキリシタンや反幕府勢力に対し、もう戦国の世は終わったのだという、最後の見せしめの意味をもっていたといわれます。幕府軍は約12万人もの兵力を動員し、一揆軍は徹底的に壊滅させられたのです。
また甲忍者は敗軍の農民たちをあわれみ、幕府軍に殺された戦死者を手厚く葬り、のちに千人塚と呼ばれる塚をつくってやったという。
この甲賀忍者たちは、自らが弾圧されたキリシタン農民たちと同じく、いずれ滅びゆく存在だということを感じ取っていたのかも知れません。