神々の魂を浄める大松明『那智の火祭り』和歌山県熊野那智大社

熊野那智大社の例大祭で「扇祭り」とも呼ぱる「那智の火祭り」は、毎年7月14日に行なわれます。
燃え盛る60キロの重さがある大松明12本が、那智の滝の石段参道を円を描きながら登り降りし、12体の扇神輿を浄める迫力のある神事です。

神武天皇
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那智の滝と神武天皇

「古事記」と「日本書紀」によれば、日本全国を平定するため、日本の初代天皇である神武天皇は九州筑紫を発し、大和へ至ったところで豪族・長髄彦の激しい抵抗に遭いました。
そのため、いったんは逃れて海上へ出て紀伊を迂回することにしました。
そして、熊野の荒坂津(現在の和歌山県串本と那智勝浦の間あたり)に上陸し、大和を目指して進軍。

この時、神武天皇は遠くの山中に不思議な輝きを発見しました。
その輝きは、那智の滝から発せられたものでした。

神武天皇はさっそく那智の滝を拝したところ、霊感が浮かび、滝の近くに大国主命を初めとする十二の神々を祀ることになったという(十二社権現)。これが那智の滝そのものをご神体とする、飛瀧神社の起源です。

那智の火祭りの起こり

四世紀の初め第十六代仁徳天皇の御代になって、那智山の中腹に新しく社殿
を造営して、十二体の神々を遷して祀ったのが、熊野那智大社の起源で、全国三千有余社の熊野神社の御本社の一つとされています。

那智の火祭りは、十二の神々を遷座した名残りを伝える神事です。
いつ頃から始まったのか定かではなく、この例大祭は、熊野那智大社から那智の滝前の飛瀧神社へ、年に一度の里帰りの様子を表したものといわれています。

十二体の神々を、那智の滝の姿を表した高さ六メートルの十二基の扇神輿に遷します。
そのまま御本社より那智の滝へ渡御をして、参道で重さ50~60キロの12本の大松明でお迎えし、その炎で浄める神事が那智の火祭り。

和歌山県熊野那智大社

那智の火祭りの一日

7月14日の早朝、那智大社では21基の御輿を「ひおうぎ」の花で飾り立て、午前11時から境内で「大和舞」、午前11時30分から国の重要無形民俗文化財に指定された「那智田楽」が奉納されます。

那智田楽は、室町時代の15世紀初頭から行なわれたもので、楽器は、笛、腰太鼓、編木の三種で、笛一人、腰太鼓四人、編木四人、番外の舞人二人、
の計十一人の編成により舞い、田楽舞を創成期の形をそのままに伝えています。

午後1時、扇神輿渡御式となる大松明、御輿の順で石段を下りながら那智の滝(滝本)にある飛瀧神社へ向かいます。

途中、御輿は止まり、大松明だけが飛瀧神社の鳥居を入り、火がつけられる。

那智の火祭り

そして大松明が御輿を迎えるように石段に向かうと、石段の向こうから御輿が現われるのです。

石段の途中で出会った御輿は、大松明の円陣に囲まれ、その炎によって浄められていきます。
そこで祭りは最高潮に達し、炎とかけ声がうっそうと茂る木々の中にこだまします。

大松明が引き上げ、御輿が飛瀧神社の前に集まると、宮司によって扇褒めの式が行なわれ、御輿は大社へ引き上げます。これですべて終了。

那智の火祭り2

原始の自然崇拝から生まれた信仰の地として

那智の滝周辺の地域は、仏教の山号である那智山で総称されますが、その中核である熊野那智大社は、熊野本宮大社、熊野速玉大社と並ぶ熊野三山の一つ。

平安時代より、信仰の対象とされ、聖なる大滝を仰ぎつつ、貴族から庶民に至るまで極楽往生を願った場所。まさに、原始の自然崇拝から生まれた信仰の地といえるでしょう。

那智の滝

那智の滝

那智滝(なちのたき)は、和歌山県東牟婁郡那智勝浦町の那智川にかかる滝。
一の滝における落差は133mであり、総合落差では日本12位だが、一段の滝としては落差日本1位を誇ります。

【所在地】
和歌山県東牟婁郡那智勝浦町那智山

紀伊勝浦駅から熊野交通路線バス「那智山行き」で、約30分、「那智の滝前」バス停下車、徒歩5分。
車では、国道42号線より県道への入口より約25分。

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