現代でも、絶交したり仲間はすれにすることを「村八分」と表現することがあります。
現代ではほとんど死語になりつつありますが、少し前までは急に周りから無視されて「村八分にされた~」なんて冗談っぽく言うことがありました。
「絶交」という言葉もほとんど使われなくなり、どちらかといえば「シカト」が標準的によく使われています。
さて、「絶交」と「シカト」、「村八分」の違いは何でしょうか?
「絶交」というと、その人とは一切関わらないこと。
主に一対一の人間関係の間で、交わされていた言葉です。
時代を経て、インターネット社会になると一対一の人間関係を築くより、集団(グループ)単位で人間関係を築くようになり、集団で対象となるひとりを絶交する「共同絶交」という形になってきました。
今問題になっているイジメのひとつとも言われています。
その「共同絶交」が「シカト」と言われます。
絶交は、一切の交流や関係を絶つことを意味しますが、「村八分」は少し違います。
簡単に言うと、ある部分の関係性は維持したまま交流を絶つことを言います。
●「村八分」は人間関係を「八分」だけの関係にすること
昔の日本の農村地域は、「村」という共同体で成り立っていました。
この共同体を維持していくには、やはり決まりごと(掟)が必要になります。
そして、その決まりごとを破る者には、その程度によってある制裁が与えられました。
もっとも重い制裁が「村八分」だったのです。
村の交際には、冠、婚、葬、追善、出産、旅行、火事、水害、建築、病気の十種ありました。
「村八分」は、そのうち葬儀と火事をはずして、八種を仲間はずれにするということになります。
反対に言うと、どんなことがあつても、火事と葬儀は手伝ったということです。
人間関係のすべてを絶つことではありません。
具体的に言うと、葬式の世話をしてあげないと、死体を放置したままになり腐臭が漂う、それが村全体の伝染病の原因となるため放ってはおけません。また、相手が死ぬと、生きた人間からは裁けないという思想の現れともいわれます。
そして火事の消火活動を助けるのは、近隣への延焼を防ぐためです。
ただし、上記の説は後付けであるという考えもあります。
語源としては、「八分」は「はぶく」や「はじく」(爪弾きにする)の訛ったものであると言われています。
現代では「村八分」は犯罪の一つです。
民事的には、村八分を受けることにより、社会的生活に困難を生ずるため権利侵害である違法な不法行為を構成し、差し止め請求や慰謝料を含めた損害賠償請求の対象となります。