熊野神社といえば紀伊半島にある熊野本宮や熊野速玉大社、熊野那智大社がすぐに思い出されます。
交通インフラの発達した現代においても、三社へお参りするのは結構たいへんです。
それだけに到着してお参りしたときの何とも言えない幸せな気持ちは、ここならではだと思います。
その長い道のりを歩むことで、より神様の存在を強く感じる事ができるのではないでしょうか。
熊野の山の精霊
熊野信仰は、紀伊半島南部の山深い地にある熊野三社から起こりました。
熊野三社は、熊野本宮大社、熊野速玉大社、熊野那智大社の総称です。
このあたりには、昔から山中に住み、狩猟や木材のきり出しによって生活する人びとがいました。
かれらが山にある巨木の精霊をまつったのが、熊野信仰の起こりです。
熊野本宮大社の祭神である家都御子神(けつみこのかみ)の神名の本来の意味は、「木の御子の神」であった。
のちにその神は、天照大神の弟神である素箋鳴尊(すさのおのみこと)と同一の神とされました。
日本神話には、熊野信仰と朝廷の神話とを結びつけるための素美鳴尊の子神の五十猛神(いそたけるのかみ)が、熊野の一帯に木を植えたとする話がつくられました。
修験者と熊野信仰
平安時代半ばごろから、熊野信仰は山岳仏教と結びつきました。
奥深い熊野の山で修行する僧侶があらわれたのです。
やがてかれらは、半分僧侶で半分俗人である修験者(山伏)になっていきました。
このような熊野山伏の本拠地の青岸渡寺(せいがんとじ)が、那智大社のすぐとなりにある。
修験者は強い呪力をもっとされたために、皇室がかれらの力をかりて国内の争乱を鎮めようとした。
そのために、平安末の有力者で院政によって国政を動かした白河法皇、鳥羽法皇などが、幾度も熊野詣でを行なりました。
この時期から皇室の保護のもとに、修験者による地方への布教がさかんになりました。
かれらの手で各地の熊野神社がひらかれたのです。そのような熊野の神は、皇室を支え国土安穏をもたらす神として信仰されました。
その他に、修験者がしきりに庶民の病気快復の祈祷を行なったことによって、熊野神社は延命長寿、無病息災の神ともされました。
甦りの旅としての熊野詣
自然信仰を原点に神社神道へと成り立っていった熊野信仰は、6世紀に仏教が伝わると早くから神仏習合が進みました。
そして「熊野権現信仰」が全国に広まっていきます。
「権現」とは、神が姿を仏に変え、衆生を救うために現れるという意味です。
過去・現在・未来を救済する霊場として、熊野は広く人々に受け入れられていきます。
さらに、強者弱者、地位や善悪、信不信を問わず、別け隔てなく救いを垂れる神仏として崇敬され、人々は難行を覚悟で、熊野をめざし、「蟻の熊野詣で」の諺も生まれました。
熊野古道は、滅罪と救いを求めて難行を続ける人々がつけた命の道です。
険しい山路を越えてやっとのことで宝前に辿り着いた人々は、皆涙に咽んだといいます。
そして、熊野の神にお仕えする私達の祖先は、たとえ参詣者のわらじが雨で濡れていてもそのまま温かく拝殿に迎え入れました。
これを「濡れわら沓の入堂」といい、熊野速玉大社の社訓になっています。
美しい感激の涙で心が洗われ、自分本来の姿を取り戻す旅・・・。
熊野は生きる力を、もう一度受け取りに来るところなのです。
命がけの旅は、私達が生まれた時に持っていたはずの純真なこころと姿を取り戻す試練の旅でもあったのでしょう。
難行苦行の果てにあるもの・・・それは、迷わず人生の再出発を踏み出すための勇気と覚悟の加護にほかなりません。
熊野速玉大社が「甦りの地」といわれる本意は、正にここにあります。
以上、甦りの聖地、熊野神社と熊野信仰でした。