お寺に行けば僧侶によってお経が読まれ、神社に行けば神主から祝詞が読まれます。
お経にはひらがなで書かれたものでは無いので、お経を聞いても普通意味は理解できません。それに大陸から輸入されたものです。
しかし祝詞は、もともとが普通の日本語なので、昔の言葉ではありますが、なんとなく何を言っているのかは理解ができます。
このようにどんな宗教にも、必ず経典というものが存在しますが、もともと日本人の信仰には、経典は存在しないものでした。
古事記とか日本書紀の事を経典と言う説もありますが、それらはあくまでも神話であって仏教の経典やキリスト教の聖書のように、教えが説かれているわけではありません。
それでは祝詞は神社で読まれているのだから、それが経典にあたるのではないのか?と思うかもしれませんが、もともと仏教が伝来するまでは神社という定義すらなかったのです。ただ純粋に大いなる存在に対して、言葉にできない祈りを捧げていたのです。
そもそも古代の日本人にとって、信仰とは何だったのでしょうか?
日本古来の信仰は、体系だった教義などもありません。
もちろんその時代には教祖であるとか、神主であるとか、住職などにあたる人も存在しません。
信仰のための立派な建物さえもありません。
古代日本人は常に身の回りの自然に対して、人間や生物とは違う尊い存在がいることを、感じ取っていました。
仮にその存在を八百万の神というのなら、その神々に対して敬う心と感謝の気持ちを伝え、生命の無事を祈っていました。
そして感謝と神の恵みを集団で祈願するお祭りには、必ず祭主がいました。
祭主には、儀式の作法や心を指導する役割があります。
それらはお祭りで実際に祭主に付き添いながら、見様見真似で行為と感覚によって、子々孫々と伝達されてきました。
まだ文字も無い時代で、神様という存在の名前も無かった信仰の中での祭りの儀式とは、言葉で説明できるようなものではなく、祭りに参加した人だけが体験するもので、その体験を通して身体と心すべての感覚を使って感得するものだったのです。
時を経ても四季折々の祭りが毎年繰り返されることによって、人々の心身に刻み込まれ、人々の間で共有され伝承されてきたのが日本人古来の信仰なのです。
また、それだけ大切にされてきた風習だからこそ、集団の中で祭りに参加しないというのは、許されざる怠慢として考えられていたのです。
暮らしの風習として根付いた神道
仏教には教えると言う漢字がついているのに、なぜ神道には教えるという漢字が使われなかったのでしょうか?
これは日本人が持つ、古代からの宗教観に基づくものと思われます。
日本人は森羅万象に霊性が宿り、神様の意思が働いていると考えていました。
雨風や環境の変化、あらゆる自然現象でさえ神の意思の表れと古代日本人は考えていました。
ゴロゴロと鳴り響き、空を引き裂く雷は「神鳴り」と考えて、雷がやってくると古代日本人は、神が怒っていると受け止めました。
さらにドカーンと爆発し、赤い炎と溶岩が流れだし人々を恐れさせた火山の噴火を「御神火」といい、火の神の怒り荒ぶる姿だと思い込みました。
そして梅雨時に川が氾濫し、あらゆるものを流してしまう洪水は、水の神の荒ぶる様だと捉えました。
ただし、古代日本人は単に自然現象を恐れていたのではありません。災害に悩まされることもありますが、この自然現象の大いなる力がプラスに働けば、ものを生み出す産土(うぶすな=人の生まれた土地)の力となり、繁茂繁栄がもたらされると考えたのです。
なんてポジティブなんでしょうか。これが日本人が、民族として現代まで引き継いできた底力なのかもしれません。
古代から現代に至っても、日本人は自然現象だけでなく、人事、社会、この世のすべてに神様の威力が作用していると、私たちは祖先から考えを受け継いできているのです。
だから何も信仰を持たない人でも、自然と手を合わせる習慣が身についています。
ごはんを食べる前も「いただきます」と手を合わせますし、大きな樹や岩などを目の前にすると何かしら自然のパワーを感じずにはいられないのです。
人間が神様の意思に背けば神様の怒りを買い、災いがもたらされる。
逆に神様の意思に応えることができれば、神様は人を愛し喜んで五穀豊穣、平和、繁栄と言う恵みをもたらしてくれるのです。
だから日本人は神様と調和しながら、神様の意思を尊重して生きてきました。
仏教やキリスト教など他の宗教が伝来しても、八百万の神への信仰が揺るがないのは、日本人の民族としての誇りであり、古代から引き継いできた感性なのです。
神道、つまり「神の道」とは、神様によって作られた道であり、人間が神様に向かうための道です。
人は、幸せに生きるためにはこの道を歩んで行くよりほかにないと思えば、神様に深い敬意と感謝を捧げ、神様の御心を伺い、示された真理の通りに行動するのです。
古代日本人は純粋な気持ちで、神様に感謝の祈りを捧げました。
ただ、残念なことは時代を経るようになって、自分自身の欲望を満たすために祈るようになってきたことです。
自分の意のままにならないと、神様に悪態をついたり、責任転嫁をするのが現代日本人です。
今こそ、古代日本人から引き継いできた民族の祈りの意味を思い出すときではないでしょうか。
「祈り」とは本来「意乗り」、それは「神の意に乗ること」という意味
森羅万象を生み出す人智を超えた大いなる存在と、交流することは人間の微力な力では到底及びません。
だから最もふさわしい特別な日に、集団で思いを1つにする場所で、「祭り」を行うようになりました。
だから「祭り」は日本人にとって最も重要なものなのです。
政治も本来「政(まつり)」であり、神様を祀ってお伺いを立て、神意に則って国や地域を治めることでした。
そう考えると日本人の日々の生活から、国家のあり方に至るまで、すべてが祭りを原点にして、形が造られてきたのかもしれません。