現在では日本人の主食と言えば<米>であり、稲作が代表的な農作物です。
でも<稲>は、最初から日本の大地に自生していたわけではありません。
そもそもの<稲>の起源は、今から7000年前の中国大陸にある長江下流域だという。
びっくりするぐらい大昔です。
そこで誕生した<稲作>が、いつどのように日本に伝わってきたのでしょうか?
稲作はどんな経路で伝わったのか?
日本で稲が栽培されていた痕跡は、岡山市の朝寝鼻貝塚から解析されました。
それによると、6000年前に栽培されていたことがわかるという。
でも今のように水田を使った栽培ではなく、地面に植えていたようです。
稲作は縄文時代の中期にはすでに伝来し、そして弥生時代が始まる直前(2500年前)に水田稲作が伝わったということです。
ただし、どのような経路で水田稲作が日本に伝播していったのかは、いろいろな説があり、明確な答えはありません。
古代日本人のお米の食べ方
ふっくらと炊きあがった白米は、とても美味しいものです。
古代日本人たちも、稲作技術が向上していくとともに、いろいろな食べ方を試していたようです。
稲作が伝わったばかりの頃は、もみのまま焼いて、もみがらを取って食べたのではないかと推測されています。その後、古代日本人は刈った稲を脱穀・精米する技術を身につけ、煮て食していたという。
古墳時代になると、現代のように煮て食べるようになり、お祝い事があるときには、お米を蒸してお餅を作っていたという。
中国の『魏志倭人伝』によると、こんな記述があります。
「倭の地は温暖にして、冬夏生菜を食う」
「食飲にはへん豆を用いて手食す」
「薑(しょうが)、橘(タチバナ)、椒(サンショウ)、襄荷(ミョウガ)有るも以て滋味と為すを知らず」
「人々は長寿で100歳、あるいは80、90歳まで生きる」
上記によると、野菜など副食を高坏を用いて、手で直接食べていた。ただし薬味の存在を知らない。さらに日本人はたいへん長寿だったと記されています。
竈(かまど)の誕生
古代日本人は、弥生時代までは竪穴式住居に住み、調理に炉を使っていました。
古墳時代になると、炉が姿を消して、代わりに部屋の片隅に竈(かまど)を設置するようになりました
とは言っても、本格的な竈の登場は5世紀頃。
竈の内側で火を炊くと、外側に煙が抜ける仕組みになっていたという。
調理と食事が一緒だった炉は、煮炊き専門の竃へと姿を変え、現代の住居と同様に、調理する場と食事をする場ははっきりと分かれていったのです。