邪馬台国論争と天皇家~卑弥呼は天皇家の祖先?

古代ロマンの代表といえば、邪馬台国はどこにあったのか?という問題です。

そして卑弥呼の存在です。

この邪馬台国と卑弥呼に関しては多くの推測を呼び、様々な物語が創作されてきました。

本当は存在しないのかもしれない、でも実在を裏付ける痕跡があるにはある、そしてさらに憶測を呼ぶ、というのを繰り返しているように思います。

卑弥呼が日本を統治していたというなら、天皇家とも無縁ではないはず。

邪馬台国論争と天皇家~卑弥呼は天皇家の祖先?
目次

伊勢神宮は日本の神社の頂点

古代史論争ほど結論の出ない論争はありません。

遺跡が出たとしても「たぶんこれは○○に使われたと想像される」ということに留められるのは仕方がないこと。

その古代史論争で一番話題に上るのが、「邪馬台国の所在地」です。

邪馬台国は、古代の日本列島にあったとされる国で、女王、卑弥呼によって統治されていたという。

ただし、これは中国の史書『魏志倭人伝』に書かれているだけで、まだ文字がなかった日本国内には、当時の記録は存在しない。そのため、邪馬台国の比定地については過去、さまざまな推測が行われてきました。

もっとも古いものでは、『日本書紀』があります。ここでは邪馬台国と大和朝廷は同じものであるとされ、卑弥呼は応神天皇の母である神功皇后(じんぐうこうごう)だと考えられました。

この卑弥呼=神功皇后説は、現在ではほぼ否定されていますが、問題は前者の邪馬台国=大和朝廷説です。これは天皇家のみならず、日本といぅ国の成り立ちにとっても大問題になるからです。

『魏志倭人伝』によれば、卑弥呼が魏に使者を送ったのは西暦239年、3世紀前半とされます。一方、大和朝廷の成立は4世紀の中ごろ。この間は、ほぼl00年と少しです。

これを素直に見れば、邪馬台国が発展し、そのまま大和朝廷になったといぅ説は、流れとしてはごく自然に思えます。その場合、卑弥呼は天皇家の祖先のひとり(もしも万世一系が当時から続いていたとすれば)ということにもなるでしょう。これを畿内説という。

箸墓古墳は卑弥呼の墓?

しかし邪馬台国を北九州に置く、北九州説というものもあります。

この説では、邪馬台国は北九州地方にあった小国家で、やがて国力を蓄え、大軍団を率いて瀬戸内海を東進、最終的に大和に入って国家を形成し、大和朝廷へ発展したということになっています。

この場合、『古事記』や『日本書紀』にある神武天皇の東征を、歴史的事実の反映として見ることができます。

また、これに似たものでは、邪馬台国は北九州にあったが後に滅ぼされ、それにとって替わった別の国が東進し、大和朝廷になったというものもあります。

前者なら卑弥呼はやはり天皇家の祖先のひとりだし、後者ならまったく無関係ということになるわけです。

畿内説にとって心強いのは、奈良県桜井市の三輪山の近くにある纏向遺跡(まきむくいせき)から、近年、次々と重要な考古学的発見がなされている、という点です。

この遺跡は実に大規模なもので、しかも東海、北陸、近畿、瀬戸内、吉備、出雲、さらには北九州まで、ほぼ全国各地で作られた土器が出土します。つまり、当時の日本で最大の政治拠点だったことがわかっています。

また、近くにある箸墓(はしはか)古墳は日本最古の前方後円墳ではないかといわれ、サィズもほぼ『魏志倭人伝』の記述どおりであり、時代も卑弥呼の時代とほぼ一致しています。

だから、ここに大きな国があったことは、ほぼ間違いない事実なのです。

『魏志倭人伝』に残された謎

◎畿内説に残る解決すべき問題

  • 『魏志倭人伝』に細かく書かれた民俗・風俗的なことがらが、南方系民族の印象が強く、南九州地方にいた隼人族との共通点が多い。
  • 『魏志倭人伝』では、北九州地方にあった小さな国々についても詳細に紹介しているが、大和に至る途中にあったはずの吉備国や出雲国に関する記述がない。
  • 『魏志倭人伝』を読めば、東へ進むという記述はなく、南へ進むと書かれていること。※畿内説ではこれを、東と西を書き間違えたのだと説明している

このようにきりがないほどの検証が、北九州説、畿内説、双方でなされています。また、邪馬台国の候補地についても、南九州説、四国説、長野説、さらには沖縄説まであります。

いずれにせよ邪馬台国の問題は、大和朝廷成立の根幹にかんする重要な課題です。それを解き明かすことは、同時に天皇家の成立という問題解明にもつながってくるのです。

様々な観点で語られている卑弥呼説

卑弥呼は、神功皇后であるという説

『日本書紀』において卷九に神功皇后摂政66年(丙戌266)「六六年、是年、晋武帝泰初二年、晉起居注云、武帝泰初(泰始)二年十月、倭女王遣重貢獻」と中国と倭の女王の記述が引用 されていたことから、江戸時代までは「卑弥呼=神功皇后」だと考えられていた。この説が 正しければ、邪馬台国はヤマト王権が拠った畿内にあったことになります。

卑弥呼は、天照大神説

卑弥呼の没したとされる近辺に、247年3月24日と248年9月5日の2回、北部九州で皆既日 食がおきた可能性があることが天文学上の計算より明らかになっており、記紀神話に見るア マテラスの「岩戸隠れ」に相当するという説。卑弥呼の弟が人々に託宣を伝える役を担って いたが、アマテラスの弟スサノヲとも共通点が見いだせる。

卑弥呼の女酋説

本居宣長、鶴峰戊申、那珂通世らが唱えた説で、邪馬台国は九州にあったと結論し、九州の 熊襲の女酋長が勝手に神功皇后の使いを偽って魏へ通交したという説。日本は古来か ら独立を保った国という考えを強く持っていたため、『魏志倭人伝』の卑弥呼が魏へ朝貢し、 倭王に封じられたという記述は受け入れられなかった。

卑弥呼は倭迹迹日百襲姫命(ヤマトトトヒモモソヒメノミコト)説

『日本書紀』のヤマトトトヒモモソヒメ ノミコト、『古事記』のヤマトトモモソビメノミコト であるという説。『日本書紀」によりヤマトトトヒモモソヒメ ノミコトの墓として築造したと 伝えられる箸墓古墳は、邪馬台国の有力候補地である纏向遺跡の中にあり、各地に類似した 古墳が存在すること、さらに出土遺物として埴輪の祖形と考えられる吉備系の土器が見出せることから唱えられた。

卑弥呼は日女命(ヒメミコト)説

『海部氏勘注系図』に記される彦火明(ヒコホアカリ)六世孫、宇那比姫命(ウナビヒメ)を 卑弥呼とする説。別名、大倭姫(オオヤマトヒメ)という大和王権の女王と思われる名を持 ち、日女命(ヒメミコト)とも呼ばれ、この日女命を卑弥呼と音訳したものという説。また、 卑弥呼の後に王位に就いたとされる台与を、系図の中で、宇那比姫命の二世代後に記される、 天豊姫(アマトヨヒメ)としています。

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