「遠慮」とは相手の心の向こう側までも配慮すること

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日本人はどんなに親しい間柄でも「遠慮」することがよくあります。
奥ゆかしさを感じる表現ですが、何かを断る際にも「遠慮」という言葉で遠回しに意思表示する際に使ったりしています。
海外の人から見ると、日本人の遠慮という行為は理解しにくいようです。遠慮がちに話されると、何が言いたいのかほとんど伝わってこないので困るという感じなのでしょう。
では、この「遠慮の文化」をきっかけにして、日本人の礼儀について考えてみましょう。

目次

日本の礼儀作法は、「遠慮の文化」

遠慮というのは遠くを重んばかると書きます。
日本人は相手の心や、その時の状況の背景にあるものを頭の中で想像して、その時に最もふさわしい言葉であるとか、立ち振る舞いをすることで相手を思いやろうとする、まさに思いやりの真髄です。

例えば相手が外国人であっても、その人の国の文化であるとか、歴史を学ぼうということまで行います。

初対面の人に年齢とか、結婚をしているかしていないかなどを聞いたりはしない、そして相手の心を傷つけたりしてはいけない、そんな世界共通のマナーも、この遠慮の心から生まれたのではないでしょうか。もしあなたが自分のことばかり話していたり、厚かましいことばかりしていると、相手に対しての思いやりに欠けている人だというふうに言われてしまいます。

日本人は相手が困ってしまったり、迷惑をかけるような言動は、とても野暮なことである、と言って嫌いました。相手の感情に触れて相手の気を悪くする様な事は絶対にしてはいけない、そんな当たり前の感覚が、現代では最も必要な事では無いでしょうか。

人と人とのおつき合いでは、人にはそれぞれの考え方があるという基本的なことを忘れてはならないでしょう。「私はこうだから、あの人もこうだろう」という想像は一つの尺度にはなっても、あくまで自分の主観にすぎません。

本当の思いやりには客観性が必要であり、その〝入り口″が「遠慮」なのです。
主観と客観が合わさったところには、素晴らしいホスピタリティも生まれてくることでしょう。

日本女性の流れるような身のこなしは、やさしい気持ちが基本

旅行というと、温泉が1番人気です。でも温泉にもきちんと礼儀というものがあります。

温泉では湯船にいきなり入ってはいけません。入る前には必ずかけ湯をしてください。

ただし、その時に勢い良くお湯を体にかけてしまうと周りにいる人にかかってしまって、迷惑をかけてしまいます。だからお湯で体をなでるように上から下に流れるように、静かにかけていきます。

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本当はこのような事は女性なら誰でも子供の時に母親から教えられたものです。

昭和初期に来日し日本の文化度の高さに魅了された英国人に、キャサリン・サンソムという外交官夫人がいました。

夫人がお風呂に入る日本女性の美しい所作を仔細に描写していますのでご紹介しましょう。

「絶えずお湯が湧き出ている温泉に、美しい体で動作も優雅な日本女性と一緒に入ることは、最も素晴らしい体験の一つで、本当の賛沢といえます。日本人女性の動作はとても控えめでかつ優雅なので、入浴自体が一つの完成された技のようです。
荒っぽい動きや無駄な動きは一つもありません。すべてが見事で、ゆったりしていて、優雅です」
(『東京に暮らす』キャサリン・サンソム 岩波文庫)

この文面からは、習慣として身に備わった、たおやかな、流れる水のように滑らかで、無駄のないふるまいが目に浮かぶようです。

日本女性のなんとも美しい身のこなしの核になっているものは、自分も他の人も慈しむ心です。

やさしい気持ちがあれば、相手の感情を害したり、不愉快な気持ちにさせたり、迷惑をかけたりすることもないはずなのです。

日本女性の美しさとは外見からではなく、気品がある振る舞いで、時として観る人に感動を与えることができる。その感動の源が自他への慈しみの心であることを、私たちは知っておかなければなりません。

思いやりの心は世界共通の礼儀作法

礼儀作法というのは、その時代に合わせて表現の仕方が変わってきます。でも、絶対に変わらない根本的なこともあります。

礼儀作法の根底にあるものは、自然界に生きるすべての命は、等しく尊いという生命の本質であります。

そして、この本質を理解することから育まれるのが、自他への思いやりの心です。

これは礼儀作法の基礎であり、古今東西変わることのない普遍的なもの。世界共通のことです。

上善若水は、礼儀作法の本質

礼儀作法の本質を表わすものとして、「上善若水(じょうぜんはみずのごとし)」という言葉があります。これは中国の古典『老子道徳経』 の中に出てくる言葉で、「上着は水の若し。水は、善く万物を利して、しかも争わず」とあります。

上着とは、最高の善のことです。最もよい善は、水のようにすべてのものを潤します。しかも、争わず、自由に流れ、どんな状況にも合わせていきます。

この水を自分に置き換えると、「自分を敬い、大切にする人は、その習慣がざまなことに及び、他の人も敬い、大切にする。そして、相手の心情や周りの状況をよく察し、それを受け入れ、そのときに一番よい方法で接することができる」といえるでしょう。

もしも〝水″が枯渇してしまっては、上善にはならないのです。つまり、人間関係でも仕事でも〝自分″が心もとない状態では、相手への思いやりや礼儀作法云々どころではない。それだけ自分を確立するということが何事においても基本であるということです。

逆に、いくら礼儀作法の形だけ身につけても心がともなっていなければ、周囲の状況や相手に合わせたふるまいは難しくなります。上善若水は、洋の東西を問わない礼儀作法の本質なのです。

なぜ礼儀作法は堅苦しいのか?

礼儀作法と聞くと、なんだか堅苦しいような、難しいようなとても取りつきにくいようなイメージがあります。それは一体なぜでしょうか?

たぶん、作法の形というものに囚われているからではないかというふうに思います。
間違った作法をしてしてしまうと自分が恥をかくかもしれない、そんな恐れがあるのではないか、と考えます。

だからよく礼儀作法を学びたい理由の1つに、恥をかきたくないからというのが1番多いようです。しかし、昔の日本にはこのような考えはありませんでした。

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江戸時代を考えてみましょう。
士農工商の導入によって、武士が人びとを統治する立場になりました。
このときに、上の者としてふさわしいふるまいを身につけなければならないということで、礼儀作法を取り入れました。

その際に生まれた「礼儀作法ができないと恥だ」という武士たちの発想が、いまだに残っているのではないかといわれています。

確かに、礼儀作法に限らず、しつけも、習い事も、武道も、みな形から入ります。
しかし、それは、形の向こうに存在する本質に気づかせるためです。

「恥をかかないために礼儀作法を身につける」とする誤った発想は、後に、最も大切な内面を置き去りにし、「外見ばかりを取り繕うもの」という誤解を生んでしまいました。

中には、心がともなわない礼儀作法が教えられ、まことしやかに伝えられたりしたものもあります。しかし、それは後世の誤った認識でした。自然を敬い、人を敬い、自分を敬う心の表われこそ、日本の礼儀作法の形なのです。

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