人間の心のありようを表現した言葉の由来をたどっていくと、仏教に由来する言葉がたくさんあります。
人が精神的な象徴に頼らざるを得ない動物であることを、思い知らされます。
「しゃかりき」は釈迦力と書く
立志伝中の人物が、苦労のほどを語るに「しゃかりきに働いたよ」という。「しゃかりきになる」ともいう。
「しゃかりき」とは、釈迦の力。
釈迦は人々を救うために、あらん限りの力を尽くしました。これにたとえて、懸命に取り組んで頑張ることを、「しゃかりき」というようになったのです。
ところで、釈迦の初めての説法は「初転法輪」と呼ばれています。
この転法輪は、覚語ダルマ・チャクラ・プラヴァルタナの訳で、古代インドの戦車のこと。
すなわち、戦車が走ってその車輪で敵を粉砕するように、釈迦の教えが衆生の間を回転し、迷いを打ち破ることを意味したのです。
「一生懸命」は「一所」を懸命に守ること
選挙の投票日が近づくと「一生懸命がんばっています。一生懸命がんばります」と、耳にタコができるほど連呼される言葉です。
今では一生と書くのが普通になっていますが、もともとの語は「一所懸命」です。
実は「一所」とは、武士の所領をさした言葉。
源平の戦い、南北朝の内乱、これすべて所領争いの歴史です。
「一所」には、一つになることの意味もありますが、自分の命を危険にさらしながら得た所領であることを意味します。
それは、所領が生活の頼みである以上に、武士の誇りであり、命であったからです。
しかし、武士も戦さに負けるようであれば、領地はたちまち没収されます。南北朝時代の戦記『太平記』に「一所懸命の地を没収せらる」と書かれている部分があります。
「一所懸命」とは、武士が一つの所領を命がけで守ることを意味し、それが転じて、「一生懸命」となった言葉です。
辛抱はただ我慢すれば良いという意味では無い
「完治までもう少しの辛抱だ」「よく辛抱したね」「辛抱強いだけが取り得です」など良く聞く言葉です。
文字にすると辛さを抱える意の「辛抱」、または「辛棒」と書きます。
辛さをこらえ、忍ぶことの意味で、「人間、辛抱だ」とは、各界の方はじめとして年長者がよくいう言葉でです。
実はこの「しんぼう」という語は、仏教語の「心法」からきた言葉といわれています。
心法とは、一切諸法を五つに分けたそのひとつで、心の働きの総称をいいます。
「この心法をよく執行したる人は、悪鬼も、いやまさぬぞと、知らせんための不動明王にて候」と、『不動智神妙録』にもあります。
心の働きを会得するためには、いったい、どれほどの苦労、辛さを辛抱せねばならぬことか…、凡人にはとても辛抱できそうにありません。