仏教は日本人にとっては、とてもなじみ深い宗教です。
現代では多くの宗派があります。でも、もともとは1つの経典が日本に伝来した時からはじまったはず。
その多くの仏教の宗派の原点は仏陀であることは、誰でも学校で学ぶことです。
しかし、その存在は神格化されて仏陀という超能力者、神様のようなイメージで捉えられているのが現代だと思います。
実際はそうではなく、私たちと同じ血の通った1人の人間という存在です。それを決して忘れてはいけません。
仏教は、紀元前5世紀頃のインドにはじまる
古代インドの釈迦族の王子、ゴータマ・シッダールタは、妻子も国も捨てて29歳で出家し、修行生活に身を投じました。
やがてかれは35歳で悟りを得て「仏」あるいは「仏陀」と呼ばれるようになります。
その仏陀が、人生に苦悩する人々を救済しようと、自らの教えを5人の修行僧に説きはじめたことから、仏教は起こります。
仏陀は言います。悟りを得れば、苦悩や迷妄、不安といった煩悩から解脱できると。
「悟りを得る」とは「真理を体得」すること
真理とは、宇宙を貫く普遍的な法則で「縁起」と呼ばれるものです。「縁起」は日常の暮らしでも使う言葉です。
この法則は仏陀がこの世にいようがいまいが真理として変わらないもので、たまたまかれによって初めて体得されたものだという。
だからといって、かれが神や霊的なものの啓示をうけたということではありません。ここは重要です。
言い換えれば、オリンピックで金メダルを目指すアスリートや、エベレスト登頂を目指す登山家のように、自らの力で、その真理を体得しているのです。
いろいろな伝説で語られるような、スピリチュアルな物語ではなく、1人の人間の努力と忍耐で体得したものなのです。
仏教を信じ、受け入れるということは、仏陀と同じように「真理の体得」を目ざす生き方をするということなのです。
仏陀の布教活動は40年にわたり、そして80年の生涯を閉じます。
亡くなったことを「入滅」と言いますが、入滅した仏陀は「釈尊」と呼ばれるようになります。
釈尊は釈迦牟尼世尊の略で、釈迦族出身の聖者という意味です。
仏陀の入滅後、仏教教団は分裂を幾度も繰り返した
仏教は紀元前後ころから、小乗仏教と大乗仏教に分かれていきます。
小乗仏教では、修行しても釈尊以外は「仏(仏陀とにはなれないとされました。釈尊に対する畏敬の気持ちが強すぎて、いわばその一線を越えられなかったのです。
そのため、修行してもたどり着けるのは、悟りの最高段階である阿羅漢どまり。
その修行も、俗世間を超越して、自分の修行と、実践を伴わない純粋な思考にだけ専念することが求められました。
つまり仏陀のように煩悩に苦しむ人々のなかに入っていって、救済しようとはしなかったのです。
苦しむ人々を救済しない宗教って、存在する意味があるのだろうか? こうした考え方を大乗仏教側は、人々の救済を忘れて、自分の解脱だけを求めようとしている利己的な教団だ、と批判。
そしてかれらの仏教を小乗仏教と呼んだのです。
大乗仏教は、功徳・利益を施して済度する教団
済度とは、すべての人々に教えを説いて煩悩から解放して救済し、浬梁に行かせようとすることであり、浬梁とは、すべての煩悩が吹き消された悟りの境地です。
その悟りにいたるため、釈尊と同じように人々と一緒に苦しみ、ともに喜ぶ菩薩の修行を実践したのです。
のちに仏陀は、永遠なる宇宙の法則そのものとしてとらえられるようになり、全知者、絶対的な救済者として信仰の対象とされ、神格化されました。
そのため仏陀の像(仏像)が仏教寺院に安置され、拝まれるようになったのです。
仏陀の意味とは
仏陀とは、悟りを得た者の呼称なのだが、もともとの意味は「真理の世界に到達し、さらにその真理の世界から人々を救済するため迷界にきた人」で、「如来」と呼ばれるものです。
つまり、仏(悟りを得た人)=如来なのです。
迷界とは三界、「欲界」「色界」「無色界」のことで、すべての生きとし生けるもの(衆生)が活動する全世界を指しています。
この大乗仏教が、インドから中国に伝わり、百済経由で538年、日本に伝わってきたのです。
以上仏教の起源と人間の仏陀が超人になった理由でした。