商売の神様といえばお稲荷さんとして親しまれている稲荷神社です。
暮らしと仕事に密接に関係している御利益が期待できるので、全国に点在し、神社の中では1番多い。
しかしその起源は、全く違うところにあった。
稲荷神社の発祥は古代豪族、秦氏の守り神だった
稲荷神社は、全国で2万社近くあるが、個人の邸宅のなかの小社まで含めれば四万か所以上で稲荷神がまつられているといわれます。
この稲荷神社の祭神は、もとは山城国(京都府)でまつられていた土地の守り神であった。
その神の名前を、宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)という。
「うかのみたま」とは、イネに宿る精霊をさす言葉です。
イネという植物の神が、やがて人びとに食物を与える食物神とされました。
稲作にまつわることから、弥生時代以降に祀られ出した可能性があります。
そして、そこから稲荷神が五穀豊穣(作物がよくみのること)をもたらす農耕の神とされました。
この稲荷神を氏神としてまつったのが、京都盆地に勢力を張った古代豪族、秦氏であった。
秦氏は『日本書紀』によると、応神14年(283年)、天皇に仕えた弓月君を祖とし、百済より百二十県の人を率いて帰化したと記されています。
日本へ渡ると初め豊前国に入り拠点とし、その後は中央政権へ進出していきました。
大和国のみならず、山背国葛野郡(現在の京都市右京区太秦)、同紀伊郡(現在の京都市伏見区深草)や、河内国讃良郡(現在の大阪府寝屋川市太秦)、摂津国豊嶋郡など各地に土着し、土木や養蚕、機織などの技術を発揮して栄えたそうです。
ただし、秦氏の起源については諸説あり、まだ研究中の分野です。
稲荷神社の総本山である京都の伏見稲荷大社の社伝には、和銅4年(72)に稲荷山三ケ峰に稲荷神があらわれたとある。
伏見稲荷大社は、この稲荷山の地にあります。
伏見稲荷大社と稲荷山
伏見稲荷大社は京都市伏見区深草藪之内町68にあり、京阪電鉄京阪本線の伏見稲荷駅を降りて五分で着きます。
境内にある稲荷山には信者から奉納された約1万基の鳥居があます。
特に千本鳥居と呼ばれる所は、テレビなどのメディアにもよく登場して、狭い間隔で多数の鳥居が建てられた名所となっています。
この鳥居を奉納する習わしは、江戸時代に始まったそうです。
奥社奉拝所の先には、「お山」と呼ばれる稲荷山を巡拝できる参道が続き、そこかしこに祀られた無数の小さな祠(その数、1万基、あるいはそれ以上とも言われる)が存在し、「お塚」と呼ばれています。
各石碑には「白狐大神」や「白龍大神」などといった神名が記されています。
参拝者の中には、石碑の前にひざまづいて「般若心経」や「稲荷心経」などを唱えている人もおり、日本で神仏分離が行われる前の信仰(神仏習合を参照)が今でも保たれているのを見ることができます。
奥社奉拝所の奥に「おもかる石」という石があります。
この石は試し石のひとつで、願いを念じて持ち上げた時、重さが予想していたより軽ければ願いが叶い、重ければその願いは叶わないといわれています。
応仁の乱で焼失する前は稲荷山の山中にお社がありましたが、再建はされず現在は神蹟地として残っています。
明治時代に親塚が建てられ、その周りに信者が奉納した様々な神名のついた塚が取り囲む形となっています。
親塚の神名が本殿に祀られる五柱の神名とは異なるが、古くからそういう名前で伝わっているとされ、理由は定かではない。
江戸で盛行した稲荷信仰
秦氏は、地方に領地を広げて発展していきました。
そのためあちこちに、秦氏に従った地方豪族の子孫であることにちなむ畑、畑野、秦野、畑山などの名字がみられます。
畑、畑野とか波多といった地名も、秦氏にちなむものです。
このような秦氏ゆかりの地に、伏見稲荷大社の分社が広がっていきました。
さらに、稲荷信仰が仏教や民間信仰と融合して狐が稲荷神の使いとされるようになりました。
室町時代に商人の勢力が拡大すると、稲荷神が本来の農耕神の性格のほかに商売繁昌の神としての性格をもつようになりました。
そして、新興の江戸の町で稲荷信仰をもつ商人が幾人も成功者になったために、江戸の庶民も稲荷神をまつるようになりました。
このようにして稲荷神社は、私たちにもっともなじみ深い神になっていきました。
以上、お稲荷さんで親しまれる稲荷神社と秦氏の関係でした。