お葬式に伴う風習として、お布施や香典などお金にまつわるものがあります。
人付き合いが希薄になってきている風潮の現代では、金額に迷うことも多いようです。
お葬式自体も最近は業者任せになっていることがほとんどで、病院から葬儀会社に連絡が行って、あっという間に段取りが仕切られてしまうことがあるようです。
本来は故人を慈しみながら心を込めて静かに送り出す儀式なのですから、業務的にならないように業者に任せきりではいけません。
本来のお布施の意味が知りたい
一般的に「布施」は、葬式や法事などを行った際に僧侶に差し出す心付けを指しますが、四国巡礼や秩父巡礼などで、地域の人たちが巡礼者に与える金品も「布施」といいます。
もともとは仏や僧侶、さらには貧しい人に対して衣食などを与えることが布施で、仏教修行において、欲望や自我を捨てることの実践が布施でした。
布施という言葉の語源は、サンスクリット語の「ダーナ(檀那)」で、「清浄な心で、人に法を説き、物品を与えるなど、施しをする」という意味です。
昔は各家の経済状況に応じて布施の金額は異なりましたが、現在は読経料や戒名料などに相場に近い料金体系があって、本来の心付けとはかなり違うものになっているようです。
出棺の時、小石で棺のふたを打ち付ける理由
昔は、出棺前に参会者一同が会食する習慣があって、これを「出立ちの飯」「出立ち膳」などといいました。この会食が終わると、夜を待って、遺体を埋葬場や火葬場まで大勢の人たちが列を作って見送る「野辺送り」が行われました。
現在は告別式が終わると、棺を霊枢車に乗せる前に、遺族や近親者たちが故人と最後のお別れの対面をします。その際、祭壇に供えられていた生花を、遺体の周りに敷きつめますが、これを「別れ花」といいます。
そして、棺の蓋に釘を打ちつける「釘打ち」の儀式を行います。
釘打ちは喪主から始めて遺族・近親者の順に行い、手にした小石で軽く二回ずつ打ちつけます。
このとき小石を使うのは、金槌などを霊が嫌うためとも、この小石が三途の川の石を表し、この川を無事渡れるようにとの願いが込められているともいわれます。
出棺は故人と親しかった人たちが担ぎ、霊枢車に足のほうから入れます。
火葬場に向かう車が出るときは、会葬者一同、合掌して見送ります。
ちなみに、江戸時代まではおもに土葬でしたが、明治以降、土葬が禁止されて、現在は火葬となっています。
香典という呼び名の由来
通夜や告別式に参列する際、遺族に贈る金銭や物品などを香典といい、「香」は「お香」、「典」は「供える」という意味です。
仏事では、もともと花や供物とともにお香を供える習慣がありました。
そのため、通夜や告別式にもお香を持参して行ったのですが、時代とともに葬儀には多額の費用がかかるようになったことから、現金を包むようになっていきました。
昔から「慶事には少なく、弔事には多く」といわれるように、香典の場合は多めの額を包むのが原則ですが、「故人が目上のときは薄く、目下のときは厚く」とも「故人が一家の長やその伴侶のときは多めに、子どもや老人のときは少なめに」ともいわれます。
一般的に香典の表書きは「御香典」「御香料」「御霊前」などと薄墨で書き、回忌の法事の際には「御仏前」と書くのが慣例です。
香典を贈られた遺族は、忌明けのあいさつ状とともに、香典返しの品物を送るのが一般的です。俗に「半返し」とか「3分の1返し」といい、贈られた香典金額の半分、あるいは3分の1程度の品物のお返しをします。このときの品物は、悲しみをひきずらないようにと、あとに残らないお茶や海苔などが使われます。
忌中と忌明けはそれぞれ何日ずつやればいいのか?
死者が出た家族は一定期間、喪服を着て日常とは異なった生活をするのが習わしで、喪に服する (「忌みに入る」ともいう)といいます。一般的には服喪、つまり「喪中」は49日の喪明けまでで、服喪の期間中、とくに死亡して間もない7日間、つまり初7日までを「忌中」といいます。
明治時代になると服忌令が出されて、父母が死亡したときの喪中は50日、服日は13か月、夫が死亡したときの喪日は30日、服日は13か月と服喪期間が定められました。
喪日とは喪中の期間のこと、服日は喪服を着ている期間のことですが、現在、服日はほとんど廃れています。
仏教では、死後49日間は、死者の霊がたどり着くところが決まっていないということで、残された者たちがねんごろに供養しなければならないとされており、この間、死者の追善のために、僧侶を招いて読経・供養の法要(法事ともいう)をしていました。
49日までの間に、7日目ごとに忌日があり、かつては7日目に初7日、14日目に27日、さらに21日目、28日目などと法要をしていたのです。
現在は地域によって異なりますが、初7日、35日目の57日、49日目の77日などに法要を行うなど、簡略化されてきています。
喪の期間中は、残された者は念仏を唱え、社交的な行事に加わらず、忌明けまでは一切の生臭物と呼ばれる魚などを口にせず、門松や餅つきなど正月の行事もすべてやめて、ひたすら喪に服しました。
現在は、こうした習わしがほとんど失われて、翌年の正月を前にして年賀欠礼の通知を出す程度になっています。
精進落としと、喪中の間は魚や肉を絶つ理由
49日間で喪中が終わると、50日目からは平常の生活に戻りますが、これを「忌明け」といって「精進落とし」をしました。
もともと仏教では、修行に努めることを「精進する」といいました。この修行期間中は、身心を清らかに保つために、行動や飲食を慎み、魚や肉など生臭物をいっさい断って、ひたすら菜食のみを摂りました。
そして、この精進の期間が過ぎて、普通の日常生活に戻ることが「精進落とし」でした。
この考え方が、葬送などの習慣として一般にも広がり、喪中の期間は生臭物をいっさい控え、喪が明けると、その区切りとして魚や肉、酒を口にするようになりました。
現在では、骨上げがすんで遺骨とともに帰宅したのちに、葬儀で世話になった僧侶や近親者、友人などを招いて酒肴のもてなしをすることが多くなっています。このときに魚や肉などの料理も出るので、これがいわば精進落としになっています。
年忌法要は何年続けるのか?
死後、満1年を経た一周忌の祥月(死亡した月のこと)命日に、法要を営み、死者の冥福を祈ります。周忌は回忌ともいい、このように、毎年回ってくる忌日の法要を、年忌、あるいは遠忌法要といいます。
一周忌の次は3回忌ですが、ここからは死去した年も年数に入れるので、3回忌は一周忌の翌年に当たります。3回忌の次は7回忌で、十三、十七、二十三、二十七、三十三、三十七と、奇数の三と七を重ねた年の年忌が続き、あとは50回忌、100回忌となります。
時代によっては1年だけで終わったり、あるいは3年だったりしましたが、鎌倉時代から室町時代ごろには33回忌に永代供養をし、あとの法要は打ち切ったといいます。また、3回忌、7回忌、10回忌の、いずれかの年忌のときに、墓石を建てる宗派もあります。
これが神道では、1年祭、5年祭、10年祭、20年祭、30年祭、40年祭、50年祭、100年祭と続きます。神道では、年数を重ねるほど、死者の霊魂はだんだんケガレが薄まって、祖先霊に近づいていくという考え方があるようです。