菅原道真は人間か?天神か?天満宮の起源と道真

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受験する志望校に合格をしたい、資格試験に合格したい、就職試験に合格したい、このような学問や試験にまつわる御利益を願ったときにみんなが行く神社と言えば「天満宮や天神社」ではないでしょうか。
その神社に祀られているのは菅原道真(すがわらみちざね)ですが、他の神社に祀られているような皇族系の神様や土着の氏神でも無く、歴史上の人間です。
でもここにお参りに来る人々は皆、道真を神様だと信じて疑わない。

これも日本人特有の面白い感覚だと思うのですが、現在生きている人物でも何か特異な才能がある人に対しては「〇〇〇の神様」として神様扱いをするという習性があります。
現代では神様も隣の友達のような感覚で親しみを込めて認識されるようになってますが、道真の時代はかなり違ったようです。

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平安時代の学者政治家が神になる異常な社会背景とは?

日本各地の天神社、天満宮は、菅原道真(845-903)を祀っています。

道真は、平安時代の代々宮廷の学者をつとめる家に生まれ、幼少の頃より天才として知られていました。
そして歳を重ねるごとに出世をして、自分の家系が持つ身分以上の地位に昇ります。
やがて宇多天皇の命令によって、政治の要職を歴任し困難な政治改革にあたった人物です。

当時、中央で権力をふるう藤原氏は賛沢にふけり、地方政治をおろそかにしていました。
そのため、地方官の悪政によって、多くの農民が貧困に苦しんでいました。
道真は地方政治をたて直し、朝廷が小農民を保護する制度を確立させようとした。

しかし、彼の考えに反発する左大臣の藤原時平と有力な貴族達は、右大臣の地位にあった道真を九州の大宰府の地方官に左遷しました。

都を離れるときに道真は、屋敷の梅の木につぎの和歌を詠みかけています。
「東風吹かば匂いおこせよ梅の花、主なしとて春な忘れそ(春風が吹けば花を咲かせて花の香りをふりまいてくれ梅の花よ、主人がいなくても春を忘れないように)」この和歌にちなんで、梅の花をかたどった梅鉢の紋が天満宮の神紋や菅原家の家紋になったという(貴族の紋章は平安時代後期につくられた)。

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怨霊から受験合格の神になった道真

道真が愛した梅の木の花をつけた枝が一本、つぎの春に大宰府の道真のもとに飛んできたという伝説もあります。

道真が左遷された直後から、民衆のあいだにこのような不思議な噂が広まった。

そして、道真が亡くなったあと、京都では落雷などの天災が起こるたびにそれを「道真の崇り」だとする話が都をかけめぐった。
まず道真の政敵藤原時平が延喜9年(909年)に39歳の若さで病死すると、醍醐天皇の皇子で東宮の保明親王(時平の甥・延喜23年(923年)薨去)、次いでその息子で皇太孫となった慶頼王(時平の外孫・延長3年(925年)卒去)が次々に病死。

さらには延長8年(930年)朝議中の清涼殿が落雷を受け、昌泰の変に関与したとされる大納言藤原清貫をはじめ朝廷要人に多くの死傷者が出た(清涼殿落雷事件)上に、それを目撃した醍醐天皇も体調を崩し、3ヶ月後に崩御した。

こういう不幸が立て続けに起きたことで、当時の貴族達は恐怖におののきました。
科学の発達した現代人には、そんな馬鹿なことと失笑されるでしょうが、平安時代の人々にとってそれらの出来事は、怨霊の仕業だと本気で信じていたのです。
その怨霊の正体こそが道真であり、自分たちを恨んでいる道真の祟りだと恐れた朝廷は、道真の罪を赦すと共に慌てて贈位を行いました。
道真の子供たちも流罪を解かれ、京に呼び返されました。

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延喜23年4月20日(923年5月13日)、従二位大宰権帥から右大臣に復し、正二位を贈ったのを初めとし、その70年後の正暦4年(993年)には贈正一位左大臣、同年贈太政大臣となりました。

清涼殿落雷の事件から道真の怨霊は雷神と結びつけられました。
ちょうど火雷天神が祭られていた京都の北野に、北野天満宮を建立して道真の祟りを鎮めようとしました。

以降、百年ほど大災害が起きるたびに道真の祟りとして恐れられたのです。
平安時代末に皇室や藤原氏がこの北野天満宮を重んじたため、地方の嵐の神や雷の神をまつる神社がつぎつぎに北野神社の保護下に入り、天神社になっていきました。
このことが天神信仰を全国化させました。

中世には商工民が天神をまつったが、江戸時代に朱子学がさかんになると、高名な朱子学者が幾人も天神信仰をもつようになりました。
これによって、天神が学業成就の神、学問の神、さらに受験の神へとかわっていったのです。

以上、菅原道真は人間か?天神か?天満宮の起源と道真でした。

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