新時代の伝統芸・宝塚歌劇(1)「清く正しく美しく」貫く、焼け跡で見た夢、作品に託

宝塚歌劇団名誉理事・植田紳爾氏の手記より。

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宝塚歌劇団は今年、100周年を迎えた。入団は宝塚音楽学校の卒業生に限り、未婚女性しか在籍を認めない方針を取ってきた。その異色の劇団が1世紀の時を刻めたのは、劇団のテーゼ「清く正しく美しく」が色あせること無く、人を惹(ひ)きつける力を持ち続けてきたからだろう。

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終戦後のくすんだ大地に光輝く舞台が出現

私もテーゼを具現化した歌劇団の舞台に惹かれた一人だ。終戦翌年の1946年、宝塚大劇場(兵庫県宝塚市)の再開公演で、戦争の惨禍をひととき忘れ、夢を見させてもらった。町はくすんだ色に覆われていたのに、大劇場の中だけは色があふれていた。

入団以来57年間、戦後の再開公演で味わった感動を、脚本を執筆し、演出した作品を通して伝えようとしてきた。

代表作「ベルサイユのばら」もその一つ。フランス革命を舞台に、男装の麗人オスカルと幼なじみのアンドレの愛を、私流の「清く正しく美しく」で描いた。主題歌「愛あればこそ」で「愛」を歌い上げたのも、戦争をくぐり抜けた故の問い「いかに生きるべきか」が下敷きになっている。

宝塚歌劇の厳格な法「すみれコード」

手掛けた作品の舞台は、激動の時代が多い。「戦後焼け跡派」なので、どうしても関心がそっちに向いてしまう。それを宝塚にマッチする恋の物語に紡ぎ、観客に届けてきた。

舞台を盛り上げようとするあまり、歌劇団のテーゼにのっとった不文律「すみれコード」にひっかかったこともある。「ジャワの踊り子」(菊田一夫作)を私の潤色で舞台化した時は、濃厚なラブシーンが「宝塚らしくない」とされ、少し手直しをした。トップ男役からは「最初の演出でやりたい」と涙ながらに訴えられ、これはこれでこたえた。

「すみれコード」の許容範囲を、時代に合わせて広げもした。もう一つの代表作「風と共に去りぬ」で、レット・バトラーを演じるトップ男役に髭(ひげ)を付けさせるかどうかでもめた時だ。東京宝塚劇場を運営する東宝から「あるまじきこと」と大反対され、東京公演の実現を巡って「髭(ひげ)が箱根を越えるか?」などと新聞に書き立てられた。

歌劇団の特徴は未婚女性約400人から成る劇団だということ。だが、必要以上に自制して、「お嬢さん芸」と揶揄(やゆ)されるのは承服できない。

昭和の初め、長い髪が女性の常識だったのに、男役は役柄に徹するため短髪にした。女性が素肌を出して舞台に立ったことでも、宝塚は先駆けだった。日本物に限らず手足に白粉(おしろい)を塗って出演するのがマナーだった時代にだ。これとて、「すみれコード」の許容範囲を探った結果だろう。

「髭や髪、化粧で大げさな」と思われるかもしれない。だが、本拠地の宝塚大劇場だけで年間ほぼ100万人の観客を迎え、春日野八千代、鳳蘭、麻実れいら歴代のトップスターはその視線を一身に浴びてきた。

彼女たちを傷つけないためには、細心の注意を払わねばならない。だから、演出家は本番の舞台が気になり、浅い眠りしかとれない日々を送ることになる。

宝塚歌劇のはじめての海外公演

1965年9月、宝塚歌劇団の総勢63人はフランスに向けて旅立った。パリのアルハンブラ劇場で約1カ月間の公演を行うためだ。私は演出助手として、海外公演に初めて参加した。

公演の企画は西ドイツのテレビ番組製作会社、ババリア・アテリエから持ち込まれた。歌劇団は創設50周年に当たる前年、「未婚女性の400人の劇団」として海外の新聞・通信社からも取材を受け、同社はトップ男役の那智わたると麻鳥千穂を西ドイツに呼び寄せてショーを制作していた。この縁で、パリ公演が企画された。

演目は歌劇団演出の日本物のショーと、ババリア側スタッフ演出による洋物のショー。外国人に制作全てを委ねるのは初めてで、洋物はババリア側スタッフが宝塚に来て作った。8月に大劇場で日本物と洋物を併せて上演してから、パリに持って行った。

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女性重視の演出への戸惑い

彼らの演出で興味深かったのは「女性」を最重視することだ。衣装からして、男役の燕尾服(えんびふく)は女性の体のラインを出そうとし、ラインダンス用は股上の切れ上がったデザインだった。生徒(劇団員)は「男役の衣装がバスト強調では恥ずかしい」「腰骨まで見える」と反発。変更を求めて団体交渉したが、ババリア側は撤回しなかった。

パリ公演は最初、客席にとまどいがあったが、徐々に感触がよくなったと聞いた。というのは、私は初日の幕が開いて数日後、同じく演出助手として参加していた菅沼潤さんとパリを立ち、ロンドンやニューヨークを巡る研修旅行に出たので、その後の舞台を見ていないからだ。

所見したところでは、日本物のショーで舞妓(まいこ)姿の一同が踊りながら舞台袖に退く時、最後尾の可奈潤子が「待って」と泣きそうな声を出していたのが、ほほ笑ましかった。この場面の後、カーテンが閉まり、真っ暗な中で舞台装置の転換が行われる。可奈は自分が退場する前にカーテンが閉まってしまい、大道具担当と交錯するのが怖かったのだ。

東洋から来たエンジェル達が話題に

パリ到着の翌日、公演のデモンストレーションで、出演者52人全員が和服の訪問着でシャンゼリゼ通りを歩いたのは誇らしい思い出になっている。地元の新聞に「東洋からエンジェルが来た」と報じられ、大きな話題になった。

訪問着を巡っては、オルリ空港に到着する際、トラブルがあった。出演者は晴れがましげにパリの地を踏もうと、男性陣をファーストクラスに遠ざけ、機内で大騒ぎして訪問着に着替えた。

意気揚々とタラップを降りると、出迎え役のシャンソン歌手ジュリエット・グレコが一人ひとりの首にレイをかけてくれた。だが、雨でレイの色紙が色落ちし、全員の訪問着が台無しになった。それに気付いた彼女たちの嘆声は、今も耳に残っている。ただ、全員が替えを用意していたから、シャンゼリゼ行進に支障はなかった。

現代の宝塚の中性的な男役の原点

パリ公演は初めからテレビ撮影を意識した企画だったので、舞台装置が希望通りにいかないなど悔いは残した。

だが、得たものは大きかった。女性を強調したババリア側の演出は、宝塚になかった中性的な男役を後に生み出す契機になった。また、この時の英国人振付家パディ・ストーン氏は、歌劇団に高度で激しいダンスをもたらした。

つづく。

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