聖徳太子が熱中した仏教と、神仏習合の成り立ち

新札になって数年を経た現代、今の1万円札の絵柄が聖徳太子であったことを知る人もだんだん減っているのではないでしょうか。
聖徳太子は、今の歴史の教科書でははっきりと実在した人物として紹介されいません。

時代とともに歴史検証が進んで、聖徳太子という超人が果たして本当に実在したかどうかが疑わしくなっているのです。

聖徳太子

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神と仏の大きな違い

神とは人間を超越した威力をもつ、隠れた存在です。

あるいは人智をもってはかることのできない能力をもち、人々に禍も福ももたらす、いわば威霊のことです。

だから神とは人間の畏怖や脅威から生まれて、信仰の対象となったものです。

しかし仏は、もともとは古代インドの人で、悟りを得たあと、人々の前に絶対的な救済者として現れた人間です。

その人間がのちに崇められて神格化されたのであって、決して畏怖されたり、怖れられて信仰の対象になったわけではない。ここが、神との大きな違いです。

神と仏の関係が曖昧になったきっかけと聖徳太子の功績

仏教が仏像とともに日本に伝わってくると、神と仏との関係があいまいになります。

なぜなら、日本にはすでに神がいたから、仏をめぐって日本国内は割れました。

それでも仏教が日本に定着できたのは、厩戸皇子、つまり聖徳太子という天才がいたからです。

当時の権力者たちは、仏を神と同じようなものだと考えました。

だからもし仏を認めてしまったら、古来から畏怖し崇めていた神々の怒りをかうのではないかと恐れた豪族・物部氏は仏教打倒を主張し、容認を主張した蘇我氏と対立、抗争します。

このとき聖徳太子は蘇我氏の側につき、両者の争いがしばらく続きます。

やがて蘇我馬子が物部守屋の討伐に成功したため、大勢は仏教容認に決まります。

といってもこの頃はまだ、仏教の教義のおおまかな考え方を認めていたにすぎなかったのです。

聖徳太子の政治と仏教

のちに日本最初の女帝・推古天皇が誕生すると、その摂政となった聖徳太子は自分の側近に渡来人をおいて仏教の師とするぐらい、教義に深い興味と理解を示しました。

聖徳太子は、心から仏教に熱中するようになりました。

しかも仏教を政治に取り入れたのです。

「十七条憲法」制定のさい、「篤く三宝を敬え」という条をいれています。

三宝とは、衆生が帰依すべき「仏」、「法(仏の説いた教え)」、「僧(仏に従う教団との三つの宝をいいます。

その三宝に帰依するということは、わが身を捨てて人を救済すること。

はじめ仏教は「現世利益」や「呪術的効験」を求めるものではありませんでした。

政治に取り入れられて、ひたすら「国家鎮護」を願う、規範、理念といったものに使われたのです。

こうして仏教は飛鳥時代にしっかりと根を張り、その後も政治権力と結びついて発展していました。

日本固有の神への信仰はどうなったのか

奈良時代になると、飛烏に根づいた仏教は国家から全面的な援助を受けて花開きます。

聖武天皇のもと、奈良の都には七堂伽藍が立ち並び、青や丹で塗られた異国情緒たつぶりの寺院の屋根は立派な瓦で飾られ、三重、五重、七重の塔が天空を衝く。

神はすっかりその陰に隠されてしまったのかというと、そうでもありません。

先にも述べたように、仏は古来の神と同じようにとらえられていて、それゆえ両者は争うものではなく、調和するべきものだという理屈が仏教の側から出てきます。

しかもかれらは、神は仏法を守り助けるもの、あるいは神も仏法によって悟りを得ることで救われるという、主張をしだすのです。

なにしろ政治と結びついて、今が盛りの仏教です。

それに対して、元からあった神道側は抵抗もせず、仏と関連づける理屈をさまざま考え出し、大仏建立をきっかけにして、東大寺の鎮守となる宇佐から八幡神を勧請して手向山八幡宮を建て、以後あちこちに寺院を鎮守する神社を建て始めるのです。

神仏習合の成り立ち

同じ頃、寺なのか神社なのかわからない「神宮寺」や「神願寺」といった寺も出現しています。

この時代は神と仏が、絶妙というより奇妙なかたちで結びつけられていったのです。これを「神仏習合」あるいは「神仏混渚」という。

習合とは、もともと異なる二つ以上の教義や教理が結びついて融合調和することをいう。これは日本にかぎらず世界中の宗教に見られます。

新しい宗教や外来の宗教が、その社会に根づき、生き長らえていくために考え出された策なのです。

この習合によって神と仏の境界はあいまいになってしまった。もともと日本人はあいまいな考え方を日常の暮らしに取り入れていたので、その流れも自然なことであったように思います。

平安初期になると宇佐八幡の神を大菩薩と呼ぶようになり、仏教の側から「神といっても、元をただせばみな仏。仏が日本人を救うために、神の姿で現れたのだ」つまり神というのは、仏が本来の姿(本地)で、人々の救済のために神という仮の姿で現れた(垂迩)、という理屈が出てきました。これを「本地垂迩説」という。

また逆に神が本地で仏がその垂迩であるという、「逆本地垂迩説」も出てくる。

こうしてあいまいな関係だった神と仏は合体してしまうのです。

平安時代以降になると、神社の境内に本地堂や護摩堂が建てられ、社殿には僧形八幡神像に代表されるような僧の姿をした神像や、神本来の姿であるという仏像が祭られるようになって、僧が神前読経するまでになります。

このようにして明治維新にいたるまで、神と仏は絶妙かつ奇妙なコンビを組むのです。

以上、「聖徳太子が熱中した仏教と、神仏習合の成り立ち」でした。

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