「せっかく」「退屈」「ぐれる」何か報われない様の語源

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よかれと思ってやっている行動や考えが報われずにイライラしたり、虚しくなって何もやる気が起きなくなったり、無駄に時間を持てあましていることにやるせない気持ちを覚えたりと、普通に生きていれば誰にでもそんな時があります。
「せっかく〇〇〇してあげたのに…」
「退屈で何もすることがない…」
「なぜ理解してくれないのかと、やるせなくてぐれる」
つい愚痴っぽくつぶやいてしまうこれらの言葉、そもそもの語源は何だったのでしょうか?

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「折角」は角の折れた頭巾の話からはじまった言葉

「折角ですから遠慮なく頂戴します」と、相手の骨折りを謝して使う言葉「折角(せっかく)」。
相手の気持ちを察して敬う気持ちがあふれています。
しかし「折角きたのに留守だった」という場合は、わざわざ力を尽くしているさまを表し、その甲斐がないことをいい、なんだか不満たらたらな愚痴のように聞こえます。

「折角」という言葉の語源は、中国に伝わっている逸話に由来しています。
中国の後漢に郭林宗という男がいました。
ある時、林宗がかぶっていた頭巾の角の片方が雨に濡れて折れ曲がっているのを人々が見て、なかなか気のきいたかぶり方だと感心した。本人は偶然そうなってしまったわけで、意図したのではなかったが、それでも人々がまねて、わざと一方の角を曲げて林宗巾と呼んだという。
そこから、わざわざすることの意で、折角という言葉が生まれた。

わざわざすることにも、いろいろあって、頭巾の角を折るぐらいのことなら、どうということはない。
現実に「折角」といえば、力を尽くすこと、骨を折ることを要する場合が多い。

最初に「退屈」したのはお坊さん

「金のある時にゃ暇がない。暇がある時にゃ金がない。とかくこの世はままならぬ」とはよくいう言葉だが、しかし金はともかく、暇がありすぎるというのも考えもののようです。

「小人閑居して不善を偽す」という言葉もあるように、よほど志の高い人でない限り、かえって暇をもてあましてしまい、ろくな結果になりかねない・暇をもてあますことを「退屈」というが、じつはこの「退屈」という言葉はもともとは仏教語として使われていました。

仏教には修行は付きもの。
僧をめざす者は、戒律に従って肉体的、精神的なさまざまな修行をしなければならないわけだが、その苦しさに耐えかねて尻込みすることを「退屈」といった。

そこから転じて「退くこと」「物ごとに飽きること」、さらに転じて今日のように「暇で困ること」の意味で使われるようになりました。
退屈しのぎに何かを学ぼうなどという動機では、何事も大成できないのは道理なのです。

「ぐれる」は、はまぐりを逆さにした言葉

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「ぐれはじめたのは中学三年のころでした」
「ぐれて家にも寄りつきません」以前はあんな子じゃなかったのに・・・
と、自分の予期した子供の姿とはまるで食い違って堕落したさまを、「ぐれた」という。

「島で窮屈な勤めがいやさにぐれはじめ、たうとう彼処にゐられなく、弁天小僧と肩書に言はるるやうになったのも」(『白浪五人男』)と、ぐれた当人は見得を切る。

ぐれるの語源が、貝のはまぐりとは意外であるが、もともとは中世の優雅な遊びの、貝合わせから出ています。
はまぐりの貝殻を左貝、右貝に分けて、合う貝を多く選びとった者が勝ちという物合わせのひとつで、『源氏物語』のなかにもみえます。
貝の裏に絵や、歌の上の句、下の句などを書き込んだりもした。

その貝合わせのときに、はまぐりの殻を逆さにしたのでは食い合わないところから、はまぐりを逆さにした語「ぐりはま」という言葉が生まれた。
物事が食い違うのが「ぐりはま」で、「ぐれはま」ともいった。
そして、「ぐれはま」が動詞化して、「ぐれる」になりました。

転じて、意味も、堕落して身を持ち崩すことをさすようになり、江戸ことばで用いられ出したのがはじまりです。
ちなみに、はまぐりの語源は、浜にあって栗に似ているところから。浜栗がはまぐりです。

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