豪快な張り子が踊る「ねむり流し」。青森ねぶた祭りの起源と伝承(青森市)

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巨大で豪快な武者姿の張り子が町を練り、「ラツセラー ラッセラー」の掛け声を張り上げて大勢のハネトが跳ねる。
「ねぶた祭り」というと、8月1日~7日にくり広げられる青森市の祭りが有名だが、実は「ねぶた」とは東北地方、特に青森県各地で広く行われてきた七夕の行事なのである。弘前市の「ねぶた祭り」もその一つだ。

目次

「ねぶた」の語源と「ねむり流し」

「ねぶた」というのは、「眠たい」がふけった言葉です。
その時分になると農村では収穫の秋を控え、労働の妨げになる睡魔を送り出し、健康を保とうとする「ねむり流し」の神事に、風流の要素が加わったものがねぶた祭りです。

七夕には、人形などにケガレを移して水に流したり、水浴びしたりする祓えの行事が広く行なわれてきました。これに夏の睡魔を追い払う行事が結びついて発達したのが「ねむり流し」の神事です。

「ねぶた流し」というのは東日本の言葉で、東北だけでなく、関東、北陸でも行なわれてきました。

長野県では「おんねぶり」といい、中部、中国、九州では「ねむり流し」「ねぶり流し」という。いずれも農村の眠気を送り出す行事。
秋田の竿燈祭りも「ねぶた流し」の行事です(秋田では「ねぶり流し」という)。

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張り子の原点

ねむり流しの神事には、合歓木の小枝などで目や身体をこすり川や海に流す例が多い。

ねぶた祭りの張り子もこれと同じで、人形の祓えから発達したと考えられている。

ねぶたの木、つまり合歓木を組んで紙を貼り付け灯龍を作ったり、合歓木に灯龍をぶら下げて送ったのが、原点といわれる。

ねぶた祭りは、昔は素朴で静かな祭りだった

津軽では、古くから七夕の日に、子どもたちが木の枝に灯籠を吊して町を練り歩いて川や海に流す「ねぶた流し」が行なわれてきました。青森のねぶた祭りも、弘前のねぶた祭りも、もともとはそうした素朴な行事だったのです。

記録によると、文禄2年(1593年)、津軽藩の祖・津軽為信が、大灯籠を披露したとあります。

享保年間(1716~1781年)には、油川(現青森市)で、弘前のねぶた祭りを真似て、灯龍を持ち歩いて踊ったという。人形型の張り子を作るようになったのは文化年間(1804~1818年)頃と言われています。

集客のためにより大きく勇ましく発展

東北・北陸の日本海側は古くから交易が盛んだったといいます。
特に青森港は、津軽米の集積地であり、日本海側の物資を江戸に運ぶための中継地であったことから、江戸時代には特に栄えました。

そして交易が盛んな地には、様々な文化も流入します。
青森のねぶた祭りは、津軽領内、さらには日本海側各地で行なわれてきた様々なねぶた流しの行事を取り入れて形作られていったものと考えられます。

さらに交易が盛んな所には人も集まるから、「評判を呼ぶ祭り」が意識され、盛大な祭りに発達していきました。

そうは言っても青森ねぶたは、もともとは人が担いでまわる「担ぎねぶた」で、それほど大きなものではなかった。

経済発展と共にどんどん大型化していくねぶた祭り

明治以降、町同士の対抗意識から次第に大型化していきました。
今日のように巨大化したのは戦後のことです。

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昭和23年(1948年)、戦後復興を祝う港まつりとねぶた祭りを結びつけて、大祭典が行なわれました。
これを機に巨大なねぶたが作られるようになったのである。そして観光化が進み、「観光客を呼ぶ祭り」を意識して、ねぶたの巨大化に拍車がかかったのだ。

現在は、高さ5メートル、幅9メートル、奥行7メートルが、一般的な大型ねぶたの大きさ。

大型台車の上に、角材の支柱を建て、針金で骨組みを作り、紙を貼る。歌舞伎、歴史、神話などの一場面が、勇壮、華麗に誇張されて描かれます。

ねぶた祭りはだいたい夜7時ぐらいからねぶたの運行が始まり、青森駅からホテル青森を通り、青森県庁舎前から青森駅に戻るコースを巡回します。

コース全体にねぶたが待機していて、一斉に動き出す。ねぶたの後ろで跳ねるハネトは時に数1000人にもなるという。

語られ始めたねぶた祭の起源

やがてねぶたの観光化が進むと、全国的にも知られるようになり、歴史ロマンのある起源説がまことしやかに語られるようになる。

青森ねぶたは「侯武多」とも書かれ、「坂上田村麻呂が、人形の中に兵を隠し、音楽に合わせてこれを川に送り、山に隠れていた蝦夷(「えぞ」ともいう)をおびき出して退治した」という故事が起源だと地元では解説されています。

勇壮な闘いの場面が描かれるのもそのためだという。

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ねぶた祭りでは、「ねぶた流れろ豆の葉とまれ」という喘し歌が歌われるが、これは、凶悪な者は対岸に流し、服従した者はこの地に住まわせた、という意味とされています。

だが、「ねぶた流れろ」といった歌は、各地のねぶた流しの行事で歌われている。この噂し歌が、睡魔を水に流すときの「唱え言」であることは明らか。

そもそも東北地方は、平泉の藤原三代に見られるように独自の文化圏を誇ってきた所。

それが朝廷にとっては脅威に感じられ、しばしば「征伐」が行われてきました。
侵略された側が、攻めてきた側の将軍を英雄として祀り上げるなどということは考えにくい。

東北、北陸地方には、蝦夷の習俗の名残りが今なお見受けられ、蝦夷との区別もつけにくいところがあります。

たとえ朝廷が蝦夷を追い払う意図を持った祭りを仕掛けたとしても、人々には受け入れらない土壌があります。

まして朝廷に抵抗して田村麻呂に敗れた東北の首領アテルイは、東北では英雄として崇拝されていたのである。したがって坂上田村麻呂の人形から始まったという話は、「まことしやかな起源説」の一つといえる。

青森ねぶたでは、以前は、最終日の7日目にねぶたを海岸から流したのだが、今は巨大になりすぎてしまったので、海の汚染防止のため、すぐに解体されてしまうようになりました。

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