人間、菅原道真を語る

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菅原道真と言えば、学問の神様、天神様、または怨霊伝説に出てくる鬼とか、どうもこの世のものではない存在として知られていることが多いようですが、実は私たちと同じ人間でした。
ただ生まれた時代や環境、そして頭が良すぎたために様々な人間の業や権力争いに巻き込まれて、不幸な最後を迎えました。
歴史に残る偉人とはそういう壮絶な人生を歩むものかもしれませんが、ここでは人間としての菅原道真を追ってみようと思います。

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しばしば嫉妬や悪口に悩まされた青年時代

菅原氏の家柄は、かつては土師氏といいます。
歴代、外交官や官人として活躍した一族であり、学者としても9世紀初頭の清公とその子・是善は文章博士に任命されています。

道真は、承和12年(845)に是善の三男として生まれました。
幼名は阿古です。

幼年期より菅原氏の私塾・菅家廊下の門人である島田忠臣に詩を学び、処女詩「月夜に梅花を見る」を伏したのは11才という早熟の際の持ち主であった。

貞観2年(859)に15歳で元服し、師・忠臣の娘である島田宣来子を妻に迎えました。

18歳という異例の若さで文章生試験(官僚採用試験のようなもの)に合格し、貞観9年には文章生の中でも特に優秀なものが選ばれる文章得業生となり方略試(議政官資格試験)を受ける資格を与えられました。

貞観13年(871)には玄蕃助(外国使節を接待する次官)に任じられ、翌年1月には存問渤海客使として渤海使節を饗応することとなった。
※渤海(ぼっかい、698年ー926年)は、満洲から朝鮮半島北部、現ロシアの沿海地方にかけて、かつて存在した国家。

しかし母が没したため、官職を一旦辞しています。
5月には喪が明けていないにもかかわらず本官に復し、渤海王に応える勅書の起草に当たった。
早くも外交官として重要な存在として認識されていたのでしょう。 

貞観16年、従五位下となり民部少輔に任官。財務官僚としての第1歩を踏み出す。
この時期から、道真は藤原良房・基経らを始めとする上級貴族の文章代作を広く行うようになります。

また、同時期に「治要策苑」編集を企画し政治運営に関連する文章を集め、実務に役立てようとしているが完成を見なかったようです。
貞観19年(877)1月に式部少輔に転任し元慶元年(877)10月には祖父・父に続いて文章博士となり学者の家柄としての面目を保ったのです。

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元慶3年(879)には「文徳天皇実録」序文を父・是善に代わり草しています。
また、上級・下級を問わず貴族たちの文章代作を広く行ってもいます。
ただ、学者の世界も競争が激しく、しばしば嫉妬や悪口に悩まされたようです。

例えば元慶6年には藤原冬緒をそしる匿名の詩が書き付けられた時に、そのような巧みなしを書けるものは道真しかいないとの理由で容疑をかけられています。そうした評判の中で出家を思う事すらあったが、菅原氏の私塾・菅家廊下は道真の下で益々の勢いを誇り、門人が多く官僚として活動した。
最盛期には文章得業生・文章生が100名にも上り「龍門」と称されるに至っています。

元慶7年(883)に加賀権守に任じられ、渤海使を再び応接し詩の贈答を行っています。
翌年には太政大臣の受け持っている任務について意見を求められ、「令義解」を基に唐との相違点にも言及して担当の役目はないと返答しています。

青年期・壮年期の道真は、文章家・学者としてのみならず外交官・財務官僚・法制度専門家に至る幅広い範囲で重要な役割を果たしていたのです。

道真の時代の地方政治の実態

仁和2年(886)1月、道真は讃岐守(現在の香川県)に任命され、現地への派遣を命じられました。
実際には左遷扱いだったようで、道真は京から離れ地方へ下る事を嘆いています。

当時の地方政治の実態は、農村における貧富の差は8世紀後半から9世紀前半にかけて著明に拡大し、有力農民の富裕化・下級農民の脱落が進行しました。

富裕層は貧民に米・銭を高利で貸し付け、その返済に負われた末に貧民は土地を失い逃亡、富裕層の支配下に入りその私的な労働に従事するようになりました。

また、富裕層は貧民層に代わり税を代納し、見返りとして位階を授かり都で衛門府・兵衛府などの小役人として出仕し、その後は官人として地元で幅を利かせるようになりました。

彼らはしばしば中央の貴族・寺社など有力者と私的な関係を結んでその威光を借り、私有地からの国司からの徴税を逃れるようになっていました。

そして、時には中央に税として納められるはずの品を横領し、東国における馬や西国における船など運送を担う人々を支配下に置いて時には国司と紛争する事例も見られました。

経済格差の拡大に伴う農村の崩壊と、それに伴う支配体制の破綻、税収入減少や兵力減少・質低下が各地方で問題となっており、地方行政再建が重大な政治的課題となっていました。
なお、兵力の問題に関しては現地富裕層の子弟を地域単位で動員する所も多くなっており、国軍の実態を失い始めていたようです。

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さて、讃岐は都に近く人口・税収とも多い重要地として知られていました。
しかしこの地域も例外ではなく破綻に直面。
朝廷はこの事態を重く見て能吏として知られる人物を、次々に行政担当者として送り込んです。
安倍興行が讃岐介として国内各地を回り民衆生活再建に尽力し、続いて藤原保則が権守として政治改革を行い、保則の後任として国司に任じられたのが道真であった。

讃岐守として赴任することを嘆いた菅原道真

讃岐への赴任を嘆いた道真ですが、職務に当たっては力を惜しむことなく励行したようです。

任命を受けた年の4月に讃岐に下向、官人たちに職務への精励を命じると共に現地の巡察を行うなど精力的に活動を見せています。

当時の讃岐の人口は、道真の残した文章によれば二十万とも二十八万とも言われるが、戸籍に掲載された人口は約半分の十二万に過ぎなかった。
しかも主な課税対象となる男子はその12.2%です。
明らかに徴税逃れ目的の偽籍が存在している訳であり、国内の脱税人口は膨大なものであったと思われます。
財政・民政の専門家として手腕を発揮する事が求められた道真としては、早いうちに問題点を把握し、対策を練る必要があったのです。

同年冬、道真は讃岐の困窮する人々を題材とした漢詩「寒早十首」を詠んでいます。
9世紀末の民衆生活の実態を捉えたと評価されるこの作品から、当時の貧民の姿が見えてきます。

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①逃亡先より強制送還された人。
既に本籍から除籍されており名前から辛うじて出身地を推測できる程度であり、元の地に送り返したとしても生活できない状況です。

②他国から逃亡してきた人。
本国に帰れない状態であるが、逃亡先でも貧しい生活を余儀なくされています。
この二つからは、戸籍の有名無実化と勧農の欠如も読み取る事ができる。

③妻を失った老人や④孤児。
彼らは支える家族もなく重税のため生活苦に負われており、救民策の崩壊が示唆されます。

⑤薬戸(中央に納める薬草を育てる薬園の労働者)。
本来なら薬園での作業の見返りに徭役は免除される筈であるのに、一般民と同様に徭役を課され貧困・労役に苦しんでいます。

⑥駅守の人。貧困の中で役人にこき使われています。

⑦雇われ船員。
農業・商業では生活できない状況で、いつ解雇されるかに怯えながら重労働に従事しています。

⑧小漁師。
農業では自活できず、天候に左右される生活。魚を売っても金にならないため貧困にあえいでいます。

⑨製塩業者。厳しい労働にかかわらず、豪商に利益を独占されています。

⑩木樵(きこり)。重労働の末に切った木を豪族に安く買い叩かれ生活が苦しい。

これらからは律令制度が実効性を失い、激しい階層分化の中で富裕層が利益を独占し貧困層を搾取している実情が垣間見えます。
道真は現地の巡視などを通じ財務官僚として、この問題への対策に苦慮することとなります。

仁和三年四月、上納した絹が粗悪であると何ヶ国かが譴責処分を受けました。
讃岐も行政処分を受け、道真は地方行政の難しさ知った。
同年秋には正五位下に昇進しそのため一時帰京、翌年春に再度讃岐に戻りました。

この時期、道真は民政・財政再建に尽力しながら、地方政治の実態を知り、従来の律令制度による支配の限界を知る事となったのです。

平安の大事件、阿衡の紛議

仁和3年(888)8月、光孝天皇の子・源定省が親王となり翌日には天皇の容態が悪化・崩御したため皇太子となり即日即位。
これが宇多天皇の誕生です。
宇多天皇は太政大臣・藤原基経に詔を下して「関白」として政務を統括するよう命じました。
しかし、その詔勅(天皇が公に意思を表示する文書)に「阿衡の任を以って」という文言があった事が問題となります。

基経は家臣・藤原佐世より「阿衡」とは位の名であり職掌(担当する仕事)はないため政務に預かる資格がないと聞き、落胆します。
そして一切の政務を見なくなり政務は停滞し、困惑した天皇や役人は基経の誤解を解こうとしますがうまくいきません。
しかし同年の10月に入り突如基経は、天皇と和解し広相の処罰も行われる事なく終わりました。

この事件には道真が、基経を文書でいさめた事が事態解決に関連していると言われます。
道真の意見書はこの事件が急転直下の解決を見せるまさに直前に出されたものであり、直接的な契機として大きく関与したものと思われます。
宇多天皇即位直後に起きた政治問題の解決に貢献した事は、道真への天皇の心象を大いに向上させ、その後の栄達へと大きく繋がりました。

中央政府で重用され栄達へ

寛平2年(890)春、道真は任期を満了して京へと帰ってきました。
翌年寛平3年より道真は中央で栄達を始めます。3月には式部少輔・蔵人頭、4月には左中弁に任じられると共に公卿待遇となっています。
翌年には従四位下となり左京大夫、寛平5年2月には参議・式部大輔となり同年に左大弁・勘解由長官・春宮亮をも兼任するに至っています。

朝廷における最大の実力者であった藤原基経が寛平3年1月に没したのを切っ掛けに、宇多天皇は意欲的に親政へ取り組みます。
特に中央政府で重用されたのが藤原保則や道真といった、実務に長じ地方行政の実情に明るい官僚だった。
中でも、学識・政治経験を総合的に評価した時に群を抜く存在であったのが道真です。
彼らに代表される中・下級官人層を推進力として寛平期の政治改革が行われます。

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寛平期の改革

財政的な危機に際し、9世紀初頭に既に対策は講じられ始めていました。
弘仁年間に出雲の乗田を利用した国営田や、大宰府管内での公営田の試みが行われています。
成年男子を1年に30日ずつ耕作に当たらせ、収穫から租庸調分や耕作者の食費・耕作費、設備修理費用を引いた額を国家の収入とする方式です。
この時期は、国家としてはこの方式に懐疑的であり大宰府管内に留まっていたが、一定の成果を収めたことで人頭税から土地を対象にした税に切り替える発想が次第に生じてくる。

寛平3年には、寺社・有力貴族といった権門が郡司ら地方豪族から厳しく取り立てる事や、権門による官物(税)横領を禁じています。
当時しばしば見られていた、中央権門と地方有力者との私的な癒着に圧力をかけるものであり、国司層の要請を受けて出された法令です。
また、法令に実行力を持たせるため船・馬を充実させ国司側の武力強化にも努めています。

そして寛平8年(896)には問民苦使を諸国に派遣し地方の農民生活の実情把握を試みた。
これまでは墾田永年私財法の「3年不耕の原則」に従って、3年以内に申請した広さを開墾できなければ他者に開発の許可を出す事となっており、権門がそれを利用して農民の開発する土地を理由に没収していたが、今後は二割を開墾できていればその分の所有を認める方針とした。

同年7月には地方財政の監察、すなわち正税の帳簿と実態を調べ不正の有無を判断するため検税使が派遣されました。
この時に道真は、国司として勤務した経験から、実情を考慮すると摘発による弊害も多いため検税使停止を主張したが、結局は検出された稲の1/2~1/3を国司の裁量に任せるという条件で妥協し派遣されるに至った。

しかし道真は、余剰の稲は横領する事例もない訳ではないが、多くは不作のときに人民に貸し出すため貯蓄するのが慣例になっている事、正税で特産物などを買い上げるのが通例であるが余剰の稲は支払いに用いるには品質が劣るといった理由を挙げ、改めて検税使の停止を要請した。

これは受け入れられ、8月には道真は財政責任者である民部卿に任じられました。
寛平7年(895)には藤原保則・源融が死去し8年には藤原良継が引退、9年には源能有が死去した関係で道真が事実上の最高実力者となります。

寛平9年には権大納言・右近衛大将として文武官の頂点に立った(この時点で大臣は空席)。藤原時平も大納言・左近衛大将となっており、ほぼ両者が雁行する体制がしばらくは続く。
こうした大きな権限の下で道真は財政再建に本格的に取り組む事となります。
菅家廊下の門人たちも多くが財政官僚として活躍しており、彼らをブレーンとして税制改革が進められていきました。

道真が提案した遣唐使の停止

この時期、外交的にも課題が生じていました。
9世紀に入ると新羅が衰退し政治的混乱期に入っていました。
これは、日本の地方支配力低下もあいまって日本海における統制が弱まる結果となり、沿岸海民の活動が活発化して交易に従事し時には海賊行為に出る事にもなったのです。
これが日本海沿岸地域の不安定要素となっていました。

こうした中で寛平6年(894)8月に遣唐使派遣が決定されました。
大使は左大弁・菅原道真、副使は左少弁・紀長谷雄がそれぞれ任じられています。

この遣唐使派遣は実に半世紀ぶりの計画であり、その背景については昔から、道真の権勢を快く思わない藤原氏が体よく道真の追放を目論んだものとも、内外へのジェスチャーに過ぎないとも言われています。

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さて任命からわずか1月後の9月、道真が遣唐使中止を進言。
その理由として道真は航海の危険・唐の衰退・唐へ到着してからも困難が伴う事を挙げています。 

この遣唐使が中止に終わって間もなく唐は滅亡、結果として最後の遣唐使計画となります。
道真は中国の先例を参考にするのでなく、日本の実情に対応して改革を進める事を余儀なくされます。

因みにこれ以降、日本は国内支配力の低下や統一的軍事力の崩壊もあり、外交に関しては極めて消極的となります。
渤海や交阯(ベトナム北部)からも国交の要求があったがこれに対しても特に対応した様子は見られない。
海に囲まれた環境を利用し、一国で自己完結した環境を作り、外部の刺激により体制が動揺するのを防いだと思われます。
日中間の正式国交に関しても、足利義満による日明貿易までは行われる事がなかったのです。

あるじなしとて春を忘るな

寛平9年(897)7月3日、宇多天皇は幼少の皇太子に突如譲位。
これが醍醐天皇の誕生です。

このとき、宇多は道真にのみ相談した上で譲位したといわれます。
譲位に際して、宇多は醍醐に道真・時平を重用し相談した上で物事を行うよう命じています。

この突然の譲位については、宇多が天皇という枠にはめられた立場から外れ、自由な立場から力を振るおうと意図したという説があります。
時が流れるにつれて若い天皇周囲には、時平を始めとして新たな政治集団が形成されつつあり、宇多とそれと結びついた道真への反発が次第に高まり道真の孤立を生んでいくことになります。
昌泰元年には宇多上皇の命令を「道真・時平以外は出仕してはならない」と曲解して、貴族たちがボイコットする事態に発展している。

しかし当面は醍醐即位後も道真の栄達は順調に続いていました。
昌泰2年(899)2月、右大臣に昇進。因みに時平もこの時に左大臣となりました。
3月には妻・宣来子の五十賀を宇多院が行幸して祝福しています。

昌泰3年(900)、道真は天皇に自らの詩文集「菅家文草」十二巻・父是善の文集「菅相公集」十巻・祖父清公の文集「菅家集」六巻を献上。
天皇はこの時、漢詩を詠み道真の文集は白居易「白氏文集」にも勝ると述懐しています。
道真の栄光極まった瞬間と言えます。

しかし、この頃から暗雲はきざし始めていました。
同年10月、文章博士で道真と対立していた三善清行が道真に、翌年が変革の年である辛酉(干支のひとつ)であることを説き、凶事に巻き込まれないうちに身を引くよう勧告しています。

翌昌泰4年(901)1月7日に道真は従二位に任じられたが、そのわずか18日後の1月25日、道真を大宰権帥(大宰府の長官代理)とする詔が出されました。
それによれば道真は分をわきまえず自分の勝手な判断で、宇多院と心を合わせて天皇を廃位し、外孫である斉世親王(醍醐の弟)を皇位につけようとしたという。

大宰府において道真に俸給も従者も与えず政務にも関与させない事や道中で食料・馬を給しない事が命じられており、実質は謀反人に対する流罪の待遇です。宇多院はこの人事には与っておらず、道真流罪を聞いた際には天皇の下に駆けつけて道真を救おうとしたが蔵人らに阻止されました。
宇多はこの時、政治的に無力な存在となっていたのです。

源善や菅原高視(道真長男)ら道真派の重要人物も、追放の憂き目に会った。
道真は京の邸宅を離れるに当たって、

東風吹かば匂おこせよ梅の花主人(あるじ)なしとて春を忘るな
(春の風が吹けば匂いを起こして東風に乗って西へ届けておくれ、家の主人がいないからと言って春を忘れてはいけないよ)
と詠んだのは余りに有名であろう。

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大宰府に流された道真は生活苦に悩まされながら、優れた漢詩を生み出し続けた。
この時期に大宰府で詠まれた詩は「菅家後集」三十八首にまとめられています。
彼は無実を叫びつつも天皇への忠誠を心の支えとして栄華の日々を懐かしみ、荘子や仏道の教えに救いを見出そうとした。
流罪になった年の9月10日に1年前の内宴で天皇に詩を献じて御衣を拝領した事を回想し、詠んだ「9月10日」という詩は古来より知られています。

去年今夜侍清涼  去年の今夜 清涼に侍す

秋思詩篇独断腸  秋思の詩篇 独り腸を断つ

恩賜御衣今在此  恩賜の御衣 今ここに在り

捧持毎日拝余香  捧持して毎日 余香を拝す

(昨年の今夜は清涼殿での内宴に侍しており、「秋思」の題で詩を賦したものだが、今はただ一人無念の思いをのんでいる。昨年に詩を賞され天皇から頂いた衣服は今ここにある。これを捧げ持って毎日、残り香を仰いで天皇の恩恵を懐かしんでいる。)

延喜3年(903)2月25日、道真は春の雪を見て望郷の思いを歌い上げた「謫居春雪」を絶筆として没した。
59歳であった。
衰退する国家の再建に捧げた生涯に報いられたとは言い難い最期であった。

その墓所に安楽寺が建てられ、後に大宰府天満宮となる。

延喜の改革

道真が左遷されて半年ほど立った昌泰4年7月、延喜に改元されました。
そして道真が進行させいていた財政改革は朝廷を牛耳った時平の手に移ったのです。
この時期は、藤原氏も経済基盤を高官として、朝廷から給付される給与等に大きくよっていたため財政改革は彼らにとっても重要課題であった。

道真と彼と対立していた時平や三善清行との間に政治方針で大きな差はなかった。
それだけに、時平にとって改革の主導権や改革完成者としての栄誉が他人のものとなる事は、防がねばならなかったのです。
改革を遂行する上で実務完了のトップであった道真の存在は余りに大きかった。
時平らは道真時代の法令文書をすべて廃棄し、編纂されていた歴史書「日本三代実録」でも編纂者から彼の名を外して後に完成させた。改革の手柄は全て時平らが独占する事としたのです。

天満天神となった菅原道真

道真が没して数年後から、凶事が続くようになりました。
延喜8年(908)、道真左遷を阻止しようとする宇多院を蔵人頭として阻止した藤原菅根が死去。
またこの年には全国的に旱魃で、翌年には疫病が流行した。
延喜9年4月、今度は道真追放の張本人である藤原時平が39歳の若さで急死。
更に都で洪水が繰り返し隕石落下も見られました。
翌延喜10年には再び旱魃に見舞われ都は繰り返し台風に襲われます。

次第に非業の死を遂げた道真の祟りであるとの噂が広がっていきました。
道真追放後は前述のように道真の政治的事跡が公式には削除・否定されていたが、同時代の人々はそれに対して大きな無理と後ろめたさを感じていたであろうことは想像に難くない。

延喜23年(923)、皇太子保明親王が夭折すると人々の声を朝廷も無視する事はできず、道真に正二位の位を授け右大臣に復し左遷の詔勅を破棄するという異例の挙に出た。

そして元号を延長に改めたが、凶事は収まらず延長3年(925)には次の皇太子慶頼王も死去。
加えて延長8年(930)、雨乞いについて会議中の清涼殿に落雷し藤原清貫が即死し平希世は多火傷を負った。
醍醐天皇もその後は病床に付し、間もなく崩御。

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これ以降、道真は雷神である天神と結びつけて語られるようになります。
10世紀における平将門の乱では、道真の子息らが東国の国司を歴任し現地との関係が深かった関係か天満天神が八幡神と共に将門が新皇を名乗る契機を与えています。

朝廷に災いなす怨霊として尚恐れられていた事が知られます。
因みに東国において八幡宮と天満天神が重んじられるのはこれが前例であろう。
10世紀半ばになると北野に天満天神が祭られるようになり、やがて菅原氏の氏神から国家が祭祀する神として崇敬されるようになりました。

以上、人間、菅原道真を語るでした。

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