和食文化の伝道師 菊乃井の村田吉弘さんが語る和食の世界観

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国連教育科学文化機関(ユネスコ)の無形文化遺産に昨年、登録された和食。政府に働き掛け、うれしいニュースをもたらした仕掛け人が京都の料亭「菊乃井」の3代目主人、村田吉弘さん(62)だ。「和食文化の維持・継承はこれからが正念場」と気を引き締める。

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食から日本の姿を考える

和食を勉強しようと今、海外から料理人がどんどん日本へ来ています。世界の料理はみな脂質が中心ですが、日本料理は「うまみ成分」が中心です。懐石料理はざっと65品目で1000キロカロリーですが、フランス料理は品目が半分以下でカロリーは倍以上ですわ。

日本料理はいろんな食品群がとれて、ヘルシー。理想的な食事形態やからこそ、海外から注目されてるのに、日本人がそれをないがしろにしてるのは困ったもんです。

小学生に母親の手料理で、好きなもんを挙げてもろたら、1位がハンバーグで2位がカレー、3位がスパゲティでした。「君ら日本の食べ物で好きなもんはないんか」と聞くと、「先生、ハンバーグは日本の食べ物とちゃうんか?」と。

僕らはおにぎりを食べますが、今の若い人らはパンです。

1960年代に比べ、米の消費量は半分に減り、食事も家族みんなバラバラ。朝はお父さんがコーヒーとパン、お母さんはサラダだけ、お兄ちゃんは焼きおにぎり、弟はピザ。

夕食も帰宅時間がまちまちやから。これやと家族のコミュニケーションもとれんようなるし、連帯感は薄れます。皆と一緒やとおいしいし、一緒に食べたいなあと思うようにせなあかんと思ってます。

確かに日本人は大きくなりましたで。でもメタボな子供も増えた。小さい頃から、おっさん体形ですわ。欧米人と日本人は体のつくりが違うのに、欧米的な食生活を続けると、体は耐えられんようになってますんや。

和食の基本は一汁三菜やと思ってます。

カレーライスやカレーうどんはどうやと問われたら、和食やと言うてます。
日本人が作り、日本でしか味わえんもんは和食でええんです。
そうやって裾野を広げれば、海外に普及できるもんがまた増える。

ヨーロッパにかぶれてもしゃあないと思います。もっとメードインジャパンを見直さんと。自国の文化を大事にせんと、世界から相手にされんようになってしまう。

ユネスコに和食が登録されたのは、韓国のキムチ文化と同着でした。でも登録申請自体は韓国の方がずっと早かった。韓国は2008年、宮廷料理で1度却下され、その後も申請を続けていたんです。

東日本大震災に見舞われ、元気をなくしてた日本ですが、日本人自らのアイデンティティーに気づいてもらい、自信を取り戻してもらうには、「登録」しかないと思ってたんです。

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「ボンボン」として不自由なく暮らし、パリでけなされ一念発起

「典型的なボンボン」だった。お金には不自由せず育った。それでも素直に家業を継ぐことには抵抗があり学生時代、欧州へ半年間、遊学。それが和食と向き合うきっかけになった。

菊乃井はじいさんの代に始めた料理屋です。

先祖はもともと京都・高台寺の茶坊主やったんです。
店の屋号は先祖が守り続けてきた井戸「菊水の井」に由来します。

幼少のころは、弁当に「カラスミ入れて」と親に頼んだり、ご飯にイクラをのせたりしてよう食べました。なんせ家が料理屋やから。お袋も結構、手の込んだ料理をつくってくれた。

習いに行ってたこともあり、カレーはルーからやったし、グラタンやクラムチャウダーなんかも食卓に出てきました。4人きょうだいの一番上やったんで、私が弟や妹たちに料理をつくったこともあります。そしたら「兄ちゃんのが一番うまい」なんて言われてね。

じいさんは「金くれ」と言うたら、なんぼでもくれた。毎晩祇園へ通い、借金を300万円ほどこさえたこともあります。

料理人やるんやったらゲタはく和食より、西洋料理の方がかっこいい。

おやじには「コックになる」とたんかを切って、まずはパリへと向かったのです。現地で就職先を決めて、帰国し卒業後、また行って働くつもりやったんで、それなりに就活しましたよ。でも何もできんわけのわからん男を誰が雇ってくれますか。毎日のようにソルボンヌ大の学食で腹ごしらえしてました。

そこで出会ったフランス人にある時「和食なんて極東のエスニックやろ。フレンチが世界一や」とバカにされ、がぜん心に火が付いたんです。「日本料理を世界に認知してもらう仕事をオレはせんといかん」とね。

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欧州遊学で人生を見つめ直す。

欧州放浪後、帰国し立命館大を卒業。名古屋の料亭「か茂免(もめ)」で3年間修業し、和食料理人としての人生が始まった。

パリでコックになるための就職活動をしたんは、最初の1カ月だけ。あとの5カ月は欧州各地を放浪して回りました。持ち金はだんだんと底をついてくるし、食うや食わずの生活で、自分以外に自分を守る術(すべ)もなかった。

実は20歳になったとき、おやじに聞かれたことがありました。「お前はどんな形で社会貢献していくんや」と。その時は何も答えられませんでした。何しろ親の保護の下でぬくぬく生きてましたから。でも、半年間の欧州遊学でその答えを見つけた気がしました。自分の人生を見直す好機にもなった。遊学生活がなかったら今、どうなっていたか。それを考えると正直、怖いですわ。

もちろん帰国した時は、おやじにどつかれましたで。でも、なぜ日本料理なのかを説明したら、最終的に許してもらえました。大学卒業後、修業に出た「か茂免」はおやじの紹介でした。ちょうどビルの中に新店を出した時期で、「新しい料理屋のあり方を見てこい」と言われましてね。

修業時代、年下から出刃包丁を突きつけられて

修業当日、いきなり先制パンチを食らいました。

料理の世界は徒弟社会。年齢は自分より下でも、先に入った方が先輩です。厨房で10代のにいちゃんにいきなり出刃包丁を突きつけられ、「京都の老舗出身やからと、なめとったらあかんぞ」とね。おやじにその話をすると「そいつらをうまく使えんかったら料理屋は継げん」と言われたのを覚えてます。

か茂免には修業の身で、中央大卒の先輩がおったんです。彼は水泳部のキャプテン、こっちはゴルフ部と同じ運動部出身やったんで、何かと気にかけてくれたんです。

「人より2時間前に出勤し、他の人の仕事も片付けておけ」。

修業当初、そんなアドバイスを受けて一番早く出勤し、一番遅くまで働いた。そしたら、いつしか呼び名も「おい」や「村田」から「村田さん」に変わりました。

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か茂免では鍋洗いからスタートし、仕入れや原価計算など最終的には一通りのことを学ぶことができました。その後、京都・菊乃井本店に戻ったんです。すると今度は、厨房の先輩たちがみな気を遣うわけですよ。何しろ「若旦那」ですからね。おやじも自分の名代で会合に参加させるし、仕事の途中でも「銀行へ行ってこい」とか言うし。

料理長はこいつをあてにしていいんか、悪いんか、分からんようになる。自分がおらんでも回る組織におるのはあかんと思うようになった。

京都に戻り、しばらくして、おやじに「自分で店やるわ」と切り出したんは、そんな事情からでした。300万円おやじに借金し、月5万ずつ返済する。その条件で京都の木屋町の7坪の土地に6席の店を出したんが、今の「露庵菊乃井」の前身です。

閑古鳥の店を父の助言で軌道にのせる

京都・木屋町に出した店は当初、さえなかったが、父の助言をきっかけに軌道に。
48歳の時、父から経営を引き継ぎ、三代目主人に就くと、職場環境の改善やテレビの料理番組へ出演、和食の普及などに精力的に取り組むようになる。

おやじに借金し、木屋町に出した店は当初、従業員は自分だけでした。

厨房は狭く、揚げる道具(フライパン)も小さかった。てんぷらはベタベタになるし、あゆも上手に焼けん。お客ゼロの日が1週間続いたこともありました。名古屋で3年修業し、一通り分かったつもりでおったのに、やり出すと分からんことだらけですわ。和洋中の料理書を片っ端から買って、読んだんはその時です。

店を出して半年後。さすがに苦しいんで「おやじ、やめるわ」と言ったんです。
出したい料理も出せんし、借金も返せへんし。すると「いくら小さい店でも、菊乃井ののれん出しとって。すぐにやめられるか」とまたどやされました。

そん時、おやじに価格設定の中途半端さも指摘されました。

夜の懐石を4000円でやっとったんですが、「安すぎて気持ち悪いやろ」と言われ、おやじが言う通り値段を上げたら、おもろいことに次第に客が入るようになった。厨房にも応援スタッフを付けてくれた。それから3年ほどですわ。予約が取れんような店に変わったんは。

おやじが脳梗塞で倒れたんは、私が41歳の時やった。

それから7年間は寝たきりでした。おやじから経営を引き継いだんは48歳の時ですが、実質は倒れた時点から任されとったんです。

経営を引き継ぎ、取り組んだ一つが職場の労務環境の改善です。この世界は、大将と弟子の徒弟社会。修業中は「休みを取るな」「給料は出さん」などと店側はええようにそれを利用してきた面はあります。

でも、そんなんでは弟子たちに夢も希望も与えられんようになる。
きちんと職場環境を整えるためにも、利益を生み出す経営が重要なんやと思ってます。
お客さんも料理だけやのうて、店の雰囲気や過ごす時間に金を払うわけやから、作る側の思いを押しつけるのはあかん。心がけとんのは「従業員よし、仕入れ先よし、お客さんよし、社会よし」です。社会をよくしていこうと思う指導者がおらんと、社会はようなっていかん。自分さえよければ、ではあかんのです。

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テレビの料理番組に出るようになったんも、みんなに日本料理を作ってもらわんと意味がないと思ったからです。

できるだけ安い材料で、レシピも自分でやってみたくなる簡単な内容で。それでおいしそうに見えるもんをなるべく紹介するようにしてます。

今年2月、パリで和食の無形文化遺産登録を記念した晩さん会があり、日本料理を振る舞いました。生きているうちに、和食が世界の料理として認められるとは正直、思ってませんでしたわ。

日本料理の体系化へ組織発足。
食文化、給食通じ未来に継承するために

和食の世界無形文化遺産登録をきっかけに今、2つの課題に取り組む。世界のだれでも読んでわかる日本料理を体系的に解説した「日本料理大全」の作成と、次代を担う子どもたちの給食問題である。

私が理事長をしているNPO法人日本料理アカデミー(京都市)で今、日本料理大全づくりに向けた準備を始めたところです。アカデミーは国内外で日本料理の発展に向け、教育や文化・技術研究などに取り組むことなどを目的に料理人や学者らが2004年に発足した組織です。

フランス料理なら近代フランス料理の基礎を築いたシェフ、エスコフィエがつくったものが、中華料理にも解説書がちゃんとあり、それを読んで、我々日本人もそれなりの料理が作れるようになってきたわけでしょ。和食ブームで海外でもすしや日本食を出す店は増えています。

「なんちゃって日本料理でがっかりした」

「今は苗木の段階やから、温かい目で見守ってやってや」と私は言ってます。
日本料理を体系的に学べる環境が一切なく、「うまいもんは食べたら分かる」と言うだけで何もせんで、よその国の人にそんなこと言うてもしゃあないでしょう。

日本は南北に長く、周囲は海で、多様な海の幸に恵まれている。
四季があり、おいしい米がとれ、その米と水で飯をたき、酒を造ってきた。

そんな日本料理のバックボーンを解説したプロローグ編をまず、15年のイタリア・ミラノでの国際博覧会(ミラノ万博)開催時までにつくろうと思ってます。そうした料理本があって初めて世界の料理になれるんです。最終的には5カ国語で出すのが夢です。

遺産というもんは何もせんと、滅んでしまう。

学校給食の問題に取り組むのも、給食が食育の基本やと思うからです。

京漬物は加熱してないし塩分が多いからダメと京都では給食に出せんし、宇治茶も出してない。ハンバーグにパンとサラダ、スープやなく、おひたしとみそ汁、ご飯にしてくれまへんか、と言うとるだけで、時代に逆行する話をしてるわけではないんです。

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牛乳を飲ますのもいいけど、食事と一緒でなくてもいいでしょう。

カロリー計算や栄養バランスに主眼を置きすぎると、食文化はおかしなもんになっていくんです。

先割れスプーンがかつて問題になりましたが、器もそうですわ。
やっぱり椀(わん)は椀の形をしたもんで食べさせてあげんと。

親はもっと子どもが食べてるもんに関心を持ち、それなりのもんを食べてるか検証せんとあかんと思います。子どもは文句を言わんのですから。食料自給率を考えれば、もっと米飯給食を増やすべきやと思ってます。

●菊乃井の村田吉弘の著書や、菊乃井が伝えてきた和食の魂やレシピを紹介した本の紹介はこちら→ 

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