三月三日「ひな祭り」、別名「上巳の節供」の秘話

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三月三日の「ひな祭り」は「上巳の節供」ともいわれています。
五節供の一つです。

女の子の節供と決められたのは、江戸時代。
それよりずっと昔は女の子だけでなく、男の子もいえ、大人も参加していたのです。

源氏物語にも「曲水の宴」として出てきます。

旧暦の三月三日は、現代の4月中旬。水も温み、暖かくなっています。
季節の変わり目で体調も崩しやすい時期。昔の人々は、水辺で禊を行いました。

特に幼い子供は、抵抗力も弱く、育ちにくかったのです。

葉っぱや紙を人形(ひとがた)に切り、それで子供の体をなぞり、邪気を移して川に流していました。それが、流し雛になっていきます。

やがて、人形ができ、お内裏様とお雛様を飾るようになります。

現代多く見られる、段飾りができたのは江戸時代からという説があります。

二代将軍の秀忠に時代、政治がらみで秀忠の孫娘が幼くして即位することになります。

母親の東福院和子様は、女性天皇になるということは一生お嫁にいけない、女として幸せになれない娘を不憫に思い、せめてもと花嫁道具のミニチュアを贈り、それが段飾りの元になっているそうです。

段飾りには、娘を思う母親の深い愛情が込められています。

お内裏雅とお雛様の飾る位置ですが、向かって右にお内裏様を置き、向かって左にお雛様を置くのが京飾りといわれていて、左上位の昔からの飾り方です。

日本や中国では左のほうが上座とされています。

天子様が北辰に座して南面すると、お日様が昇る東は左になるからです。
ただし、国際的には右上位。大正天皇が即位なさる時に国際的に右上位で
行われてから、特に関東ではお内裏さまを向かって左に置くようになりました。

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左近の桜と右近の橘

左近の桜と右近の橘は御所にもあります。
左近の桜はその昔、梅の木だったそうです。
村上天皇がお気に入りの御所の梅の木が枯れてしまいました。
部下があるお屋敷の庭の立派な梅の木を、天皇のために家人にお願いして譲り受けました。
御所に持ち帰られた梅の木を村上天皇が眺めてると、一枝にこよりが結ばれていました。

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そこには

勅なればいともかしこし鶯の宿をと問はばいかにこたえぞ帝の命ならば、この梅の木はさしあげましょう。ただ、鶯が帰ってきて、宿はどこにいったのかと問われたら、私はなんと答えたらよいのでしょう。
(大鏡鶯宿梅)
としたためられていました。

それをお読みになった天皇は梅の木を返して、桜の木を植えました。

右近の橘は昔から代わりません。
橘は古事記にも非時香菓(ときじくのかぐのこのみ)としてでてきます。

垂仁天皇の命を受けたタヂマモリは常世の国へ、立派な非時香菓(ときじくのかぐのこのみ)を捜しに行きます。

10年して葉と果が付いた木を持ち帰るのですが、垂仁天皇は亡くなってました。

タヂマモリは垂仁天皇の陵の前で泣き死んだという話しが残されています。

橘は、葉が常緑なので「永遠」に通じると、そして実もつけるのでおめでたい木とされたのでしょう。

そして、タヂマモリは果を持ち帰るので、お菓子の神様「果祖」として信仰されるようになりました。

橘はタヂマモリからきているという説もあります。

(瀧澤先生談)

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