武士道の道徳観~品性を高め、清明な日本人であれ~

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日本の武士道と同じようなものとして、ノブレス・オブリージュという言葉が使われることがあります。
これは欧米社会の基本的な道徳観ともされ、高貴な身分にともなう義務のことで、高い地位にある者はそれにふさわしいふるまいをしなければならないとするものです。

武士道と同じく、いろいろな解釈のある言葉ですが、ノブレス・オブリージュの柱は、「人として望ましい人格を養うこと」 です。ノブレス・オブリージュは古今東西変わることのない、普遍的な品性を身につける教育であり、すべての人に共通する自己啓発法と言われることもあるようです。

武士道が欧米に知られたのは、1900年(明治33年)に新渡戸稲造が英語で書いた『武士道』という本が公刊されたことがきっかけでした。

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品性を高め、清明な日本人であれ

新渡戸稲造は、人としての尊厳を根底に置き、「品性を高め、清明な日本人であれ」 と説いています。
自分自身に誇りを持って人生を歩み、たくましく生きている姿があってこそ、人に合わせたり、身の回りの状況に合わせたりすることができるようになります。
武士道のその根底にあるものは、自立し自律している人間性。

昔は武家に生まれても、それだけで武士になれるわけではなく、武家の子弟は教育を与えられ、自ら努力して武士になっていきました。親は子供に肝を据えること、平常心を保つことを教えるために、ときには怖しい体験もさせながら教えていったのです。

こうした教育を受けて、武家の子弟は自尊心を養い、自立していくのです。
命をリアルにやり取りする時代の社会で、生き抜いていかなければいけないわけですから、現代人とは比べものにならないぐらい自立した精神を要求されていたかもしれません。

新渡戸 稲造(にとべ いなぞう)
1862年9月1日(文久2年8月8日)~ 1933年(昭和8年)10月15日)
日本の教育者・思想家。農業経済学・農学の研究も行う。
国際連盟事務次長も務め、著書 Bushido: The Soul of Japan(『武士道』)は、流麗な英文で書かれ、長年読み続けられている。日本銀行券のD五千円券の肖像としても知られる。東京女子大学初代学長。東京女子経済専門学校(東京文化短期大学・現:新渡戸文化短期大学)初代校長。

「白洲次郎」の、人間としての品性

昭和の日本で武士道を体現した人の1人に、白洲次郎がいます。

英国のヘンリー・プールといえば、国王のエドワード一世、チャーチル元首相など、名だたる方たちが顧客として知られた老舗の紳士服テーラーですが、この名門テーラーの背広を、白洲次郎さんは60歳になって初めてオーダーしたという有名なエピソードがあります。

もちろん財力はありますし、オーダーに年齢は関係ありません。
それでも白洲次郎が60歳になるまでオーダーしなかったのは、自分が老舗ブランドを身につけるのにふさわしい人間になるまで待ち続けたからでした。

これは、白洲さんが若い頃にイギリスで授かった紳士教育の精神を反映すると同時に、人間としての礼儀のあり方を示しています。

世界的に見ても、お金さえあれば何でも買えるという考え方は、礼儀に反する発想です。日本では、ものには魂が宿るとされていますが、それは世界どこでも同じです。

名門のブランド品を身につけるということは、その国の文化や、またそれをつくった職人の心をいただくということです。そこまで想像して今の自分の身の丈に合った品を買い求め身につけることが、プロトコール(公式な国際マナー)でもあるのです。

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白洲次郎は、礼儀に厳しい

こんな話が伝わっています。
バスの後ろについて車に乗っていたとき、停車したバスから降りてきた乗客が、自分の卓のほうに会釈をしませんでした。
すると、「自分が降りたのだから、後ろの車は止まって待っている。だから会釈するのが礼儀だろう。日本人はいつからこんなに行儀が悪くなったんだ」と洩らしたそうです。

人間は自分ひとりだけでは生きてはいけません。たくさんの人と関わりながら、人間社会は成り立っています。
だから、自分がたくさんの人に生かしていただいていることは、変わらぬ真理です。
そこから人としての思いやりが生まれ、礼儀となります。
これがまさしく日本の心そのものではないでしょうか。

白洲次郎は、他人の子供にもよく「行儀よくしなさい」と諭したといわれています。

彼の父は実業家でしたが、祖父は江戸時代に藩に仕える儒学者でした。そのような家柄でしたから、仮に直接教えられたわけではないにしても、しつけには、知・仁・勇の儒教が基本にあったことでしょう。

青年時代はケンブリッジ大学で学び、貴族教育を受けました。
しかし、日本の心を土台として西洋の騎士道精神が培われていったことを、見落としてはなりません。

そうでなければ、マッカーサーから「唯一従順ならざる日本人」といわれたほどの毅然とした態度を示すことはできなかったのではないかと思います。

日本に誇りを抱き、人間とは何かという尊厳をもち続けたからこそ、万難を排して自分の意志を貫き通せたのでしょう。

白洲次郎は、まざれもなく立派な紳士でした。そして紳士としての礼儀は、人間としての礼儀でもあったのです。

白洲 次郎(しらす じろう)
1902年2月17日~1985年11月28日
日本の官僚、実業家。兵庫県芦屋市出身。
終戦連絡中央事務局次長、経済安定本部次長、貿易庁長官、東北電力会長などを歴任した。
連合国軍占領下の日本で吉田茂の側近として活躍し、終戦連絡中央事務局や経済安定本部の次長を経て、商工省の外局として新設された貿易庁の長官を務めた。吉田茂の側近として連合国軍最高司令官総司令部と渡り合う。吉田政権崩壊後は、実業家として東北電力の会長を務めるなど多くの企業の役員を歴任した。

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